(『レンヌ=ル=シャトーの謎』マイケル・ベイジェント、リチャード・リー&ヘンリー・リンカーン著から抜粋)
「シオン団(プリウレ・ド・シオン団)の歴代総長②」では、9代目の総長だったルネ・ダンジューについて書く。
ルネ・ダンジューは貴族の家に1408年に生まれて、生涯に数多くの爵位を持った。
彼の娘マルグリッドは、1445年にイギリス王のヘンリー6世と結婚し、薔薇戦争で重要な役割を果たした。
プリウレ・ド・シオン団の文書によると、ルネは10歳でシオン団の総長になったが、叔父のルイ枢機卿が1428年まで後見役をした。
ルネは、1418年にルブリエ・ブラン(白い猟犬)騎士団に入っているが、これはシオン団の別名だろう。
1420年頃に創設されたフィデリテ騎士団は、ルネが創設メンバーと言われている。
1448年にルネは、三日月騎士団を設立した。
これは、ギョーム・ド・ジゾール(シオン団の3代目総長)が入っていた船と二重十字の騎士団を復活させたものらしい。
三日月騎士団は、創設メンバーにミラノ公のフランシスコ・スフォルツァ、レノンクール伯、ロレーヌの領主フェーリがいた。
ルネ・ダンジューは、有名なジャンヌ・ダルクとも関係があった
ジャンヌはドンレミの町で生まれたが、そこはルネの領地だった。
ジャンヌが「私はイギリスの侵略からフランスを救うため、王太子シャルルを王位に就ける使命を帯びている」と主張した時、彼はまずルネの義父で曾叔父でもあるロレーヌ公に謁見を求めた。
ジャンヌがロレーヌ公と会った時、その場にルネも居た。
ロレーヌ公がジャンヌに望みを尋ねると、ジャンヌは「あなたの(義理の)息子(つまりルネ・ダンジュー)、馬、兵隊が、私をフランスに連れて行く」と答えた。
こうしてジャンヌが自分の使命として動き出した時、ルネは一緒に行動した。
そのため2人は愛人だったという説まである。
ところが、ジャンヌ・ダルクの活躍で果たしたルネの役割は、後になって歴史から消されたようだ。
だからジャンヌが大活躍した1429年から31年までが、ルネの伝記で説明されていない。
意志の弱い王太子シャルルの尻を叩いて鼓舞したのは、イオランデ・ダンジューだった。
イオランデは、ルネ・ダンジューの母である。
イオランデはジャンヌ・ダルクを支援し、オルレアンまで行くジャンヌに兵隊を付ける許可を与えた。
イオランデは、王太子と自分の娘を結婚させた。
私たちが調査するほどに、ジャンヌ・ダルクの生涯は「仕組まれたもの」に思えてきた。
「ロレーヌの乙女」という大衆受けする伝説を利用して、人々を操ったのではないか。
もしそうならば、指揮をしたのはルネ・ダンジューだろう。
ルネ・ダンジューは、文学への志向が強く、啓蒙的な著作が多数ある。
また一時期は、クリストファー・コロンブスを雇っていた。
ルネの家には、ユダヤ教徒の占星術師であるジャン・ド・サン=レミという医者が出入りしていた。
伝説によるとジャン・ド・サン=レミは、有名な預言者であるノストラダムスの祖父という。
ルネ・ダンジューは、ヨーロッパのルネサンス運動の立役者でもあった。
彼はイタリアに数年滞在して、ミラノのスフォルツァ家や、フィレンツェのメディチ家と接触した。
ルネの影響で、コジモ・デ・メディチがルネサンス計画に乗り出したという、信頼できる説がある。
ルネがイタリア滞在中の1439年に、コジモは古文書を探すために広く人を派遣した。
1444年にコジモ・デ・メディチは、サン・マルコ図書館を設置して、ローマ教会による学問の独占に挑戦した。
コジモの指示で、プラトンの思想や、グノーシス思想、ヘルメス思想の古典が翻訳され、誰にでも読めるようになった。
コジモは、ピュタゴラスとプラトンを研究する学院を創設し、同様の機関がイタリア各地に設立された。
ここからルネサンスが花開いたのである。
1502年に、ジャコポ・サンナザロが長編の詩『アルカディア』を発表した。
数年前にルネ・ダンジューがイタリア滞在で一緒にすごしたのがジャック・サンナザザロで、ジャックはジャコポの父である。
ジャコポの詩は翻訳され、16世紀にイギリスで影響を受けたフィリップ・シドニーが『アルカディア』を書いた。
17世紀には画家のニコラ・プッサンが、『アルカディアの牧童』を書いた。
私たちが調査したところ、何らかの情報が何世代も伝承されたと分かった。
どうやらルネ・ダンジューから、メディチ家、スフォルツァ家、エステ家、ゴンザーガ家へと、何かが伝えられたらしい。
それでゴンザーガ家のフェランテ(フェルディナン)・ド・ゴンザーグとルイ・ド・ゴンザーグが、シオン団の総長になった。
さらにその知識は、同じくシオン団の総長となった画家のボティチェリとレオナルド・ダ・ヴィンチの作品へ投影されたのだろう。
(2023年3月10日に作成)