(『レンヌ=ル=シャトーの謎』マイケル・ベイジェント、リチャード・リー&ヘンリー・リンカーン著から抜粋)
「シオン団(プリウレ・ド・シオン団)の歴代総長③」では、10代目の総長から、その経歴を書く。
「プリウレ・ド・シオン団」の10代目からの総長は、次のとおりである。
⑩イオランデ・ド・バール 1480~1483年
⑪サンドロ・フィリペピ(ボティチェリ) 1483~1510年
⑫レオナルド・ダ・ヴィンチ 1510~1519年
⑬コネタブル・ド・ブルボン 1519~1527年
⑭フェルディナン・ド・ゴンザーグ 1527~1575年
⑮ルイ・ド・ヌヴェール(ルイ・ド・ゴンザーグ) 1575~1595年
⑯ロバート・フラッド 1595~1637年
⑰ヨハン・ヴァレンティン・アンドレーエ 1637~1654年
⑱ロバート・ボイル 1654~1691年
⑲アイザック・ニュートン 1691~1727年
⑳チャールズ・ラドクリフ 1727~1746年
㉑シャルル・ド・ロレーヌ 1746~1780年
㉒マクシミリアン・ド・ロレーヌ 1780~1801年
㉓シャルル・ノディエ 1801~1844年
㉔ヴィクトル・ユゴー 1844~1885年
㉕クロード・ドビュッシー 1885~1918年
㉖ジャン・コクトー 1918~年
11代目のサンドロ・フィリペピは、有名な画家であるボティチェリのことである。
〇10代目のイオランデ・ド・バール
1428年に生まれた、ルネ・ダンジュー(9代目総長)の娘である。
1445年に、ロレーヌのシオン=ヴォーデモンの領主で、三日月騎士団の創設メンバーとなるフェーリと結婚した。
イオランデの息子ルネは、ロレーヌ公を継いだ。
このルネは、フィレンツェで学び、秘儀伝承も学んだ。
ルネの家庭教師は、ボティチェリの後援者だったジョルジュ・アントワーヌ・ヴェスプッチである。
〇11代目のサンドロ・フィリペピ(画家のボティチェリ)
ボティチェリは、1444年に生まれた。
彼は、メディチ家、エステ家、ゴンザーガ家、ヴェスプッチ家といった貴族に支援された。
彼は、レオナルド・ダ・ヴィンチも師事したヴェロッキョの許で学んだ。
最近の学者たちは、ボティチェリの作品には秘儀に通じる具象が見つかると言う。
最初期のタロット・カードは、ボティチェリかその師匠のマンテーニャが作ったと考えられている。
〇12代目のレオナルド・ダ・ヴィンチ
1452年に生まれ、ボティチェリと同じくヴェロッキョに師事した。
レオナルドも、メディチ家、エステ家、ゴンザーガ家に支援された。
さらにフランシスコ・スフォルツァの息子ルドヴィゴにも支援された。
フランシスコ・スフォルツァは、ルネ・ダンジュー(シオン団の9代目総長で三日月騎士団の創設メンバーの1人)と三日月騎士団の仲間で、2人は親友だった。
レオナルド・ダ・ヴィンチと同時代の伝記作家ヴァザリは、「レオナルドは異端の思想を持っていた」と書いている。
〇13代目のコネタブル・ド・ブルボン
コネタブル・ド・ブルボンことシャルル・ド・モンパシエは、当時のフランスで最も有力な君主だった。
彼は1490年に、クレール・ド・ゴンザーガの息子として生まれた。
彼の姉妹は、イオランデ・ド・バール(10代目総長)の孫であるロレーヌ公と結婚している。
シャルル・ド・モンパシエ(シャルル3世)は、ミラノ太守(ミラノ総督)の時にレオナルド・ダ・ヴィンチと知り合ったようだ。
シャルルは、フランス王・フランソワ1世の不興を買い、逃亡した。
その後は、神聖ローマ帝国のカール5世に仕えて、軍の司令官になった。
1525年のパヴィアの戦いにシャルルは従軍したが、この戦争でフランソワ1世は捕虜となっている。
〇14代目のフェルディナン・ド・ゴンザーグ
1507年に、マントヴァ公とイザベル・デスティーズの間に生まれた。
(※ウィキペディアを見たところ、彼は現在はフェッランテ1世と呼ばれているらしい。シチリア総督やミラノ総督をしたという。)
コネタブル・ド・ブルボンことシャルル・ド・モンパシエは、彼の従兄弟である。
フェルディナンは1557年に死去したとされているが、その死はあまりに曖昧で、おそらく死なずに地下に潜伏した。
1575年に亡くなったフェルディナンの息子セザールは、父と混同されている。
(※1996年版のあとがきに書いてあることを、補記する。
フェルディナン・ド・ゴンザーグは、1527~75年までシオン団の総長だったと、シオン団の文書にある。
だが彼は、1557年に死去している。
シオン団の現総長であるピエール・プランタールによると、フェルディナンは1556年に総長を解任され、それから10年間はノストラダムスが総長の摂政役をしたと言う。
ノストラダムスが1566年に死去すると、ロレーヌ枢機卿シャルルらが75年まで率いた。
作家のリズ・グリーンは、フェルディナンの死後はロレーヌ枢機卿シャルルが継いだが、聖バルトロマイ祭の虐殺の罪で彼の名が抹消されたと推測している。)
〇15代目のルイ・ド・ヌヴェール
ルイ・ド・ゴンザーガと同一人物である。
1539年に生まれたが、前総長のフェルディナンの甥である。
(※ウィキペディアを見たところ、彼はマントヴァ公爵家に生まれ、フランスのヌヴェール公爵とルテル公爵を継いだ人である。)
宗教戦争の時、ルイはロレーヌ家とその分家であるギーズ家と共に、フランスのヴァロア王朝を崩壊させた。
彼は、フランス王のアンリ3世と政争をしたが、アンリ4世とは和解して財務長官として仕えた。
(※アンリ3世は、ヴァロア王朝の最後の王となった。アンリ4世はブルボン王朝の初代である。)
ロバート・フラッド(次の総長)の父トーマスは、アンリ4世を支援するためにイギリス王家が送り込んだ財務官で、ルイ・ド・ゴンザーガとは仕事仲間になったらしい。
ルイは秘儀を学び、異端として火あぶり刑になったジョルダーノ・ブルーノとも付き合っていたらしい。
1582年にルイは、イギリスでフィリップ・シドニー卿(『アルカディア』の著者)や、秘儀に詳しいジョン・ディーと付き合った。
〇16代目のロバート・フラッド
ロバート・フラッドは、ジョン・ディーの後継者としてイギリスを代表する秘儀思想家になった人である。
彼は「至高の善人」と評して、錬金術師や薔薇十字団を褒めている。
ロバートは、欽定訳聖書の翻訳をした学術会議のメンバーでもあった。
彼が付き合った人には、(次の総長となる)ヨハン・ヴァレンティン・アンドレーエの親友だったヤヌス・グルターもいた。
1602年にロバートは、マルセイユでギーズ公の息子シャルルの家庭教師をした。
1610年にシャルルは、アンリエッテ=カトリーヌ・ド・ジョワイユーズと結婚したが、ジャワイユーズの領地にはレンヌ=ル=シャトーが含まれていた。
1614年に、薔薇十字団の宣言書『ファーマ・フラテルニタティス』が現れて、旋風を起こした。
薔薇十字団の思想を最も雄弁に語ったのが、ロバート・フラッドだった。
なお『ファーマ・フラテルニタティス』は、ロバートの次のシオン団の総長となるヨハン・ヴァレンティン・アンドレーエが書いたと考えられている。
この書は、ローマ教会と神聖ローマ帝国を激しく批判している。
〇17代目のヨハン・ヴァレンティン・アンドレーエ
1586年にパラティネート公国で、ルーテル派の牧師の息子として生まれた。
前述のとおり、薔薇十字団の『ファーマ・フラテルニタティス』を書いたと考えられれている。
アンドレーエの作品には、聖杯物語やテンプル騎士団の影響も見られる。
1613年に、ファルツ選帝侯のフリードリヒは、イギリス王のジェームズ1世の娘であるエリザベス・スチュアートと結婚した。
フリードリヒは結婚後に、ハイデルベルグに宮廷を建てたが、それは薔薇十字団の思想に影響されていたという。
フリードリヒは1618年に、反逆の意志を固めた貴族たちから王冠を授けられたが、ローマ教会と神聖ローマ帝国の怒りを買い、三十年戦争となった。
フリードリヒと妻エリザベスはネーデルランド(オランダ)に追放され、25年もの間ドイツは苛酷な戦争の舞台となった。
三十年戦争は、ローマ教会が覇権を奪還しようとする戦争だった。
三十年戦争の間に、アンドレーエは「キリスト教同盟」という秘密結社を創った。
その目的は、ローマ教会の迫害から人々を救い出すことであった。
キリスト教同盟の助力で多くの人が、当時はまだフリーメーソンが組織されたばかりのイギリスに脱出した。
アンドレーエの次にシオン団の総長となったロバート・ボイルも、亡命者たちと親しくした1人である。
〇18代目のロバート・ボイル
コーク伯爵の息子として1627年に、アイルランドで生まれた。
1638年からヨーロッパ旅行をして、メディチ家のあるフレンツェにも滞在した。
ジュネーブでは21ヵ月もすごし、悪霊学などを学んだ。
1668年に彼は、ロンドンに妹と住んでいたが、この妹は(前総長の)アンドレーエの友人で、後には連絡役となるジョン・デュリーと結婚した。
ロバート・ボイルの親友は、アイザック・ニュートンとジョン・ロックで、ボイルはニュートンに錬金術を教えたという。
ロックは、ボイルと知り合うと、南フランスに行ってノストラダムスやルネ・ダンジューの墓を訪れたらしい。
ロックは、キリスト教カタリ派の異端審問の報告書を研究し、「マグダラのマリアがマルセイユに聖杯を持ってきた」という伝説を調べたようだ。
ロバート・ボイルは、ジョルジュ・ピエールという謎の人物と膨大な手紙のやり取りをし、錬金術について書いている。
その手紙では、ボイルがサヴォイア公爵やピエール・デュ・モーリンと共に、錬金術の秘密結社に入っていたと書かれている。
ボイルは、錬金術についての論文「水銀と金の加熱」と「金の劣化に関する歴史的解釈」を発表している。
イギリスでオリバー・クロムウェルが政権をとっていた時代は、活力ある思想が醸成された。
ボイルはこの思想の醸成を、「目に見えない学院」と呼んでいた。
1660年にイギリスで君主制が復活すると、目に見えない学院は「王立協会(英国学士院)」となった。
王立協会の創設会員は、実質的に全員がフリーメーソンだった。
王立協会は、薔薇十字団に端を発し、ヨハン・ヴァレンティン・アンドレーエの創ったキリスト教同盟を経た、フリーメーソンの組織だった。
この地下水脈は、ボイルの次にシオン団の総長となったアイザック・ニュートンに受け継がれた。
〇19代目のアイザック・ニュートン
1642年に生まれ、ケンブリッジで学び、1672年にイギリス王立協会の会員に選出された。
彼は1673年にロバート・ボイルと知り合った。
また彼は、1689年頃に謎の人物ニコラ・ファティオ・ド・ディリエと付き合うようになった。
ニュートンは、1696年にイギリス王立造幣局の局長となり、1703年には王立協会の会長となった。
この頃に、フランスから逃げて来たジャン・デザギュリエと親しくなった。
デザギュリエはフリーメーソンで、フリーメーソンの普及で活躍した人である。
デザギュリエは1731年に、ロレーヌ公フランソワのフリーメーソンへの入会式を取り仕切った。
フランソワは後にマリア・テレジアと結婚して、神聖ローマ帝国の皇帝(フランツ1世)になった。
ニュートンは、教皇アレクサンデルも会員だった半フリーメーソンの「スポルディング紳士クラブ」のメンバーだった。
ニュートンはフリーメーソンの著作と同様に、(旧約聖書の)モーゼよりもノアを秘儀知識の源泉として高く評価していた。
彼は古代ユダヤ教を知識の宝庫と考え、聖書や古典神話の出来事を科学で体系化する研究をし、イアーソーンの金羊毛の探求を軸に据えていた。
彼は、フリーメーソンと同じく、(聖書に書いてある)ソロモン神殿の配置と寸法が重要と見て、そこには錬金術の調合が隠されていると信じていた。
ニュートンは錬金術に深く傾倒し、神聖幾何学と数秘学を研究した。
錬金術の著作もあり、蔵書には100冊以上の錬金術の本があった。
錬金術についてロバート・ボイルやジョン・ロックや前述のニコラ・ファティオ・ド・ディリエらと、膨大な量の手紙を交わしている。
ニュートンは、イエスの神性に疑問をもち、新約聖書の一部は5世紀に挿入された偽物と考えていた。
また彼は、グノーシス思想に関する論文も書いている。
彼は、キリスト教カミザール派(セヴェンヌの預言者たち)に共感を示したが、カミザール派はかつてのカタリ派と同じく、グノーシス(人々への直接的な神の啓示)を重視し、イエスの神性に疑問を持っていた。
ニュートンは、臨終のときに終油の秘跡(※カトリック派の信者が受ける儀式)を受けず、人々を驚かせた。
〇20代目のチャールズ・ラドクリフ
1693年に生まれたが、母方の祖父はイングランド王のチャールズ2世である。
彼の母は、チャールズ2世の愛人だったモール・デーヴィスの娘である。
彼はチャールズ2世の孫で、ボニー・チャーリー王子や、リッチフィールド伯ジョージ・リーの従兄弟である。
チャールズ・ラドクリフとその兄ジェームズは、1715年のスコットランドの反乱に加わり、投獄されてジェームズは処刑された。
チャールズはジョージ・リーに助けられて、ニューゲート牢獄から脱出し、フランスのジャコバイト派にかくまわれた。
数年後には、ボニー・チャーリー王子の私設秘書となった。
1745年にスコットランドに上陸したボニー・チャーリーは、イギリス王位にスチュアート家を据えようとしたが、翌年のカロデン・ムーアの戦いで敗れて、フランスに逃亡した。
チャールズ・ラドクリフはこの時、ボニー・チャーリーに合流しようとしたが、逮捕されてロンドン塔で処刑された。
ボニー・チャーリーらスチュアート家の者は、フランスに滞在中、フリーメーソンの普及に励んだ。
「スコットランド典礼」として知られるフリーメーソンの儀式は、スチュアート家が持ち込んだと考えられている。
彼らは、スコットランドに伝わる秘儀や、錬金術、カバラ主義などを持ち込んだ。
スコットランド典礼によるフリーメーソンは、チャールズ・ラドクリフが普及させたと言える。
ラドクリフは、フリーメーソンの支部を1725年にパリに設立している。
そしてフランス支部の総長になった。
ラドクリフと同時期に活躍したのが、アンドリュー・ラムゼーである。
ラムゼーは、1680年代にスコットランドで生まれたが、秘密結社「フィラデルフィア」に加入した。
ラムゼーは、アイザック・ニュートンの親友であるジャン・デザギュリエやニコラ・ファデオ・ド・デュリエと付き合いがあった。
ニュートンと同様にラムゼーも、ローマ教会に迫害されたキリスト教カタリ派や、それと似たカミザール派に同情していた。
アンドリュー・ラムゼーは、フランスのカンブレに移住し、聖シュルピス教会の前司祭で哲学者のファネロンと親しくなった。
その後にジャコバイト派と親しくし、ボニー・チャーリー王子の家庭教師をした。
ラムゼーは1729年にイギリスに戻ったが、ただちに王立協会に迎えられた。
さらに「スポルディング紳士クラブ」という秘密結社の会員にもなった。
この会員には、教皇アレクサンデル、ジャン・デザギュリエ、ニュートンもいた。
またラムゼーは、ブイヨン公の庇護を受けたが、ブイヨン公はボニー・チャーリーの従兄弟である。
1737年にラムゼーは、フリーメーソンの歴史について有名な演説をし、これは後に「組合(クラフト)」に発展した。
私たちの調査では、ラムゼーの背後にいたのがチャールズ・ラドクリフである。
1750年代に、カール・ゴットリープ・フォン・フントというドイツ人が、フリーメーソンについて告白した。
フントは1742年にフリーメーソンに入会したらしいが、フリーメーソンの上位者たちはジャコバイト派と密接だったと言う。
フントは当初、自分の入会式を仕切ったのはボニー・チャーリー王子だと信じていた。
フントによると、フリーメーソンはスコットランド典礼をさらに発展させて、「厳守令」が掟になっていた。
「厳守令」という呼び名は、上位者たちに会員が絶対服従を誓うことに由来する。
この掟は、かつてフランス国王やローマ教会から迫害されて、スコットランドに逃げて来たテンプル騎士団に由来するものだった。
テンプル騎士団がスコットランドに逃げて生き延びたのは歴史事実で、徐々に世俗化しつつ、フリーメーソンや貴族と融合していったらしい。
フントは告白をしたことで、フリーメーソンから除名され、大噓つきと非難されたが、彼の証言は真実を含んでいると思える。
フントが公開したテンプル騎士団の総長の一覧表は、私たちがパリ国立図書館で見つけた『秘密文書』の記述と一致している。
非難を浴びたフントを庇護したのは、神聖ローマ帝国の皇帝フランソワ(フランツ1世)だった。
フランソワは、マリア・テレジアと結婚して、ハプスブルグ家とロレーヌ家を結びつけ、ハプスブルグ=ロレーヌ王朝を創設した人である。
チャールズ・ラドクリフの次にシオン団の総長になったのは、フランソワの弟のシャルル・ド・ロレーヌである。
なおフランソワ(フランツ1世)は、「自分はフリーメーソンである」と公言していた。
彼の入会式を取り仕切ったのは、ニュートンらと親しいジャン・デザギュリエだった。
さらにフランソワは、イギリス滞在時に「スポルディング紳士クラブ」の会長にも就いている。
フランソワ(フランツ1世)の宮殿は、フリーメーソンなどの活動拠点となり、フランソワ自身も王宮に実験室をつくって、錬金術を研究していた。
〇21代目のシャルル・ド・ロレーヌ
1712年に生まれたが、兄のフランソワが1736年にマリア・テレジアと結婚して皇帝(フランツ1世)になったので、シャルルはオーストリア皇帝の兄弟となった。
彼は1744年に、マリア・テレジアの妹であるマリー・アン(マリア・アンナ)と結婚した。
(※ウィキペディアにはシャルル・ド・ロレーヌは、カール・アレクサンダー(シャルル・アレクサンドル・ド・ロレーヌ)で書いてある)
兄のフランソワは、マリア・テレジアと結婚する時に、領地だったロレーヌの権利を放棄して、代わりにトスカーナ大公の領地を受け取った。
シャルルはこれを認めず、1742年(1744年か?)に軍を率いてロレーヌを奪った。
1757年にシャルルは、フリードリヒ大王にロイテンの戦いで負けた。
そしてマリア・テレジアによって軍司令官の職を解かれ、本拠地のブリュッセルに引きこもった。
1761年にシャルルは、チュートン騎士団の総長になった。
1770年にチュートン騎士団の助手に、甥のマクシミリアンを任命した。
〇22代目のマクシミリアン・ド・ロレーヌ
1756年に生まれた。
彼はマリア・テレジアの息子で、落馬で片足に障害が出て、ローマ教会の司祭になった。
1784年に神聖ローマ帝国の選帝侯(ケルン大司教選帝侯)になったが、1780年にチュートン騎士団(ドイツ騎士団)の総長にも就いている。
マクシミリアンは、音楽家のハイドンやモーツァルトを支援した。
フランス革命の前には、姉のマリー・アントワネットをかばおうとした。
革命が起きると、貴族たちの避難に手を貸したらしい。
これまでにシオン団の総長になったロバート・ボイル、チャールズ・ラドクリフ、シャルル・ド・ロレーヌらと同じく、マクシミリアンも末っ子である。
彼らは、兄の代理人として活動したらしい。
〇23代目のシャルル・ノディエ
1780年にフランスで生まれた。
彼は貴族の出身ではなく、おそらく歴代の総長と血の繋がりもない。
フランス革命の影響で、プリウレ・ド・シオン団も貴族階級と決別したらしい。
ノディエの父は、フランス革命が起きるとブザンソンの市長になったが、フリーメーソンの会員でもあった。
ノディエは、年に1冊のペースで著作を出したが、その内容は小説、エッセイ、研究もの、秘儀思想と幅が広い。
彼はナポレオンが政権をつくると、それに反抗し、投獄もされている。
ノディエは作家だったが、当時の有力な文化人で、影響力はかなりあった。
1824年に彼は、フランスで最大の蔵書を誇るアルセナル図書館の主席司書となった。
この図書館は、ニコラ・フラメルの錬金術に関する著作もあり、魔術書などを集めたリシュリュー枢機卿の蔵書もあった。
少し前の1819年に、ナポレオンはヴァチカンにあった古文書のほとんどを没収して、パリに運んだ。
その古文書は、後にヴァチカンに返却されたが、多くのものがフランスに残り、ノディエたちの手に渡った。
ノディエと共に古文書を調べた者に、エリファス・レヴィやジャン・バプティスト・ピトワがいた。
彼らは魔術に関する著作を書いている。
ノディエは1845年に死去するまで、フランス芸術界の重鎮だったが、彼の弟子だったヴィクトル・ユゴーはシオン団の次の総長になっている。
オーギュスト・ド・ラブース=ロシェフォールが書いた『レンヌ・レ・バンへの旅』は、レンヌ=ル=シャトーに関する財宝伝説が詳しく書かれている。
またロシェフォールが書いた『愛人たち、エレオノールへ』は、扉ページに「アルカディアにて我」という言葉がある。
シャルル・ノディエは、秘密結社と深く関わった人で、わずか10歳で「フラデルフィー」という秘密結社に加入している。
彼が友人たちとつくったグループがあり、そこで使った朗唱用のエッセイが残されているが、その題名は「アルカディアの牧童は田舎のフルートの最初の音を吹き鳴らす」である。
1816年にノディエは、『ナポレオン軍における秘密結社の歴史』を書いた。
この本によれば、ナポレオンの没落などに秘密結社が絡んでおり、秘密結社たちの頂点にいるのがシオン団だと示唆している。
ノディエは、歴史の裏で秘密結社が謀略を行ってきたという神話を、広めた人といえる。
ノディエたちが生み出した19世紀のフランスにおけるオカルト・ブームは、19世紀末にピークに達した。
そして19世紀末にシオン団の総長だったのは、クロード・ドビュッシーだった。
〇24代目のヴィクトル・ユゴー
1802年に生まれた、フランス人の作家である。
彼の父はナポレオン軍の将軍だったが、ユゴー自身はナポレオン政権を倒そうとする者たちと親しかった。
ユゴーは17歳の時に、シャルル・ノディエの弟子になった。
1819年には、ノディエと共に出版社を設立している。
1822年にユゴーは、聖シュルピス教会で結婚式を挙げた。
1845年のノディエの葬式では、彼は棺を担いでいる。
19代目総長のアイザック・ニュートンと同じく、ユゴーもキリスト教カトリック派の三位一体の教義を否定し、イエスの神性も否定していた。
ノディエの影響で、秘儀思想や錬金術に傾倒した。
さらにユゴーは、薔薇十字団にも関係していたらしい。
ユゴーが熱狂的に支持した支配者は、フランス王となったルイ=フィリップで、2人は親友だった。
なおルイ=フィリップは、婚姻関係でハプスブルク=ロレーヌ家と結ばれ、妻はマクシミリアン・ド・ロレーヌ(22代目総長)の姪である。
〇25代目のクロード・ドビュッシー
1862年に生まれた、フランス人の作曲家である。
10代の時に、フランス大統領の愛人宅でピアニストとして働き、大統領とも知り合った。
1880年にロシア貴族(フォン・メック夫人)の養子(?)になり、彼女と共に旅行して回った。
ドビュッシーは、1887年から1906年は、ほとんどをパリで暮らした。
ドビュッシーの手紙は、ほとんどが隠されており、公開されたものでも時には一部が削除されている。
彼は、詩人のポール・ヴェルレーヌを通じてヴィクトル・ユゴーと知り合ったらしい。
彼は、ユゴーの多くの作品に曲をつけている。
ドビュッシーがパリで交遊した者には、ベランジェ・ソニエールやエミール・オッフェ、エンマ・カルヴェらがいた。
(※ソニエールらは、レンヌ=ル=シャトーについて書いた別ページで出てくる)
ドビュッシーとステファヌ・マラルメは、神秘思想と秘儀思想に深く傾倒し、その方面のサークルに加入していた。
ドビュッシーの知り合いには、パピュスとして知られる、ジェラール・アンコースもいた。
パピュスは、今でも使われている有名なタロット作品(タロット・カード)を出版した人である。
ドビュッシーの親友で、パピュスの友人でもあった、ジョセフィン・ペラダンは、1890年に「カトリック薔薇十字と神殿と聖杯の修道会」を創設した。
ぺラダンは自分の歌劇団をつくり、金羊毛、薔薇十字、聖杯といったテーマの作品を上演した。
これらの作品を後援したのがドビュッシーだった。
ペラダンとドビュッシーの友人で、薔薇十字団のメンバーだったモーリス・バレスは、1912年に『ラ・コリーヌ・アンスピレ(霊感の丘)』を出版した。
この作品は、ベランジェ・ソニエールとレンヌ=ル=シャトーの物語を、寓話にしたものという。
確かに両者の内容は似ている。
ドビュッシーの次にシオン団の総長になったのはジャン・コクトーだが、コクトーはモーリス・バレスやヴィクトル・ユゴーの曾孫ジャンと友人になり、1912年からはドビュッシーとも付き合いだした。
コクトーは1926年に、ドビュッシーも取り上げた『ペレアスとメリザンド』のオペラ作品をつくった。
〇26代目のジャン・コクトー
1889年に生まれた、フランス人の作家である。
コクトーの家族は政治の有力者で、彼はヨーロッパの古い貴族とも交際があった。
コクトーとプリウレ・ド・シオン団の繋がりは、彼の手がけた映画『オルフェ』や劇『双頭の鷲』からもうかがえる。
コクトーは、第二次大戦中のロンドン空襲で大打撃を受けた、ノートルダム・ド・フランス教会の修復に参加した。
そして1960年に同教会に、十字架刑の壁画を書いた。
この壁画は、真っ黒な太陽と緑色の謎の人物が右下に描かれ、十字架は下半分しか描かれていない。
このため、十字架にかけられた人が誰なのか分からない。
さらに巨大な薔薇が十字架に付けられている。
(2023年3月9~11日に作成)