(『ダブルクロス アメリカを葬った男』チャック・ジアンカーナ著から抜粋)
1954年4月10日に、ムーニーの妻アンジェが亡くなった。
病死だった。
アンジェは、夫から愛されていなかった。
クロゼットには毛皮のコートが並んでいたし、宝石箱には高価なものがどっさりあったが、愛されていなかった。
結婚当初から、ムーニーは数え切れないほど多くの女と騒ぎまくっていた。
アンジェはそれを知っていた。
彼女は富を与えられ我慢していたが、それは1つの取引だった。
チャックはアンジェの亡骸を見ていると、彼女の生涯はうつろなものだったのではないかと思えてくるのだった。
ムーニーは、アンジェの葬儀が終わると、アンジェの姉アンナ、その娘マリー、マリーの夫ジム・ペルノに、家事のすべてを任せることにした。
6月には自分の娘たちへの責任からも逃れて、教育をペルノ夫妻に委ねてしまった。
すると7月に、今度はムーニーとチャックの父であるアントニオが急死した。
アントニオの葬儀には、アンジェの時と同じく、シンジケートの大物が顔を揃え、市会議員や州議会議員も来た。
翌55年になると、ムーニーはチャッキー・ニコレッティとミルウォーキー・フィルを使って、シカゴにわずかに残っていた障害を取り除いた。
つまりチャーリー・ジョー、フランク・マリトーテ、ルイス・グリーンバーグを始末したのである。
この3人はアル・カポネの手下だった古顔のメンバーで、ムーニーへの不満を語っていた。
この年は、シカゴ・シンジケート(シカゴ・マフィア)のボスであるトニー・アカードとポール・リッカが、IRS(アメリカ政府歳入庁=国税庁)に目を付けられて苦しんでいた。
アカードは引退して身を隠したがっていたので、秘密会合でムーニーにポストを譲ることにした。
こうしてムーニーは、正式にシカゴ・シンジケートのボスとなった。
1955年の11月になると、ラスベガスに派遣されているマーシャル・カイファノが、ウィリー・ビオフを見つけたと報告してきた。
ビオフは1941年のブラウン=ビオフ事件で仲間を売り、それ以来フェニックスに逃亡していた。
その後、共和党のバリー・ゴールドウォーター上院議員と懇意になり、選挙運動を手伝った。
1952年になると、ビオフはラスベガスのカジノ「リヴィエラ」で仕事に就き、支配人のガス・グリーンバウムの下で働くようになった。
だがリヴィエラは、シカゴ・マフィアが後ろについていたから、裏切り者が発見されるのに時間はかからなかった。
カイファノからの知らせを聞いて、ムーニーは昔の必勝の戦術でいくことにした。
1955年11月4日、自分のトラックのイグニション・キーを回したビオフは、木っ葉のように散らばった。
爆発音は何マイルも遠くまで響きわたった。
(2018年10月28日に作成)