マクレラン委員会の発足、ティームスターズを使った不正

(『ダブルクロス アメリカを葬った男』チャック・ジアンカーナ著から抜粋)

1956年12月の始めに、ボビー(ロバート・ケネディ)はシカゴを訪れ、労働組合で起きている恐喝事件の調査をした。

労働分野での不正行為に関する上院特別委員会の首席顧問である31歳のボビーは、「ティームスターズ(トラック運転手の組合)は腐敗と暴力がはびこっている」と結論した。

そしてティームスターズの委員長デイヴ・ベック、デトロイトのジミー・ホッファ、シカゴのジョーイ・グリムコに圧力をかけると誓った。

1957年1月30日に、ボビーの勧告をうけて『マクレラン委員会』が連邦議会に設置された。

マレー・ハンフリーズからムーニーに届いた報告はこうだった。

「心配ない。ジョー・ケネディは全てをコントロールしておくと約束している。」

この言葉を信用して、ムーニーは今まで通りに全米で違法ビジネスを続けた。

だが1957年8月になると、ムーニーはマクレラン委員会の動向を丹念に追いかけるようになった。

ティームスターズとその指導者デイヴ・ベックに対して、厳しい調査が行われていた。

組合資金の横領にシンジケートは絡んでいたが、いずれ深くメスが入れられるとの情報をムーニーはワシントンから得た。

ある秋の午後、ムーニーはチャックに会うなり叫んだ。

「あのケネディ家のガキは、一体どうしちまったんだ?

ボビーのクソ野郎が急所を責めるって気になるなんて。
そうやって兄貴の組合票を掘り崩しているって分かりそうなもんじゃねえか。

それに兄貴のジャックもどうしちまったんだ!
奴までが委員会に入ってやがる。

あいつらバカかよ?」

チャックがムーニーの目をのぞき込むと、以前と変わることのない凄まじいまでの残酷さがそこに潜んでいた。

「なあムーニー、落ち着けよ。
ジョー・ケネディは情勢をコントロールできると言ってるんだろ?」

「ああ、奴は『これは政治的な動きにすぎん。ただのゲームだ』と始終言ってるそうだ。」

「ジョー・ケネディは、兄貴に命を助けてもらった恩義がある。
奴が出鱈目を言うと思うかい?」

ムーニーは半分だけの笑いを浮かべて言った。

「奴には他にも貸しがある。
まあ切り札は何枚かあるからな。
上院の大物議員に何人か、貸しを作ってある。」

「兄貴に借りがある人間は至る所にいるんだから、安心しろよ。」

ムーニーは躊躇いながらも頷いた。

「その通りだな、酒でも飲もうか。」

この頃、マレー・ハンフリーズが君臨するシカゴ・ティームスターズは、破竹の勢いにあった。

ティームスターズ(トラック運転手の組合)が関係していたのは、期限付きの物資で、肉や農産物を扱っていたが、遅滞なく店頭に到着しなければ腐敗してしまう。

さらに部品などの輸送が滞れば、工場は活動停止を余儀なくされる。

速やかな輸送ができるか否かは、しばしば死活問題であり、ティームスターズをうまく使えば会社の乗っ取り、破産、買収も意のままだった。

逆に言えば、一部の会社がティームスターズと組めば、そのライバルは直ちに深刻な輸送問題に直面する。

こうした計略の基礎を築いたのは、マレー・ハンフリーズからシカゴ・ティームスターズを任されたシシリー人(シチリア島の出身)のジョーイ・グリムコである。

グリムコの指揮の下、ティームスターズは花屋からトイレ清掃業者にいたるまで、あらゆる労働者を組合に加入させた。

そしてデイヴ・ヤラス、レニー・パトリック、レッドおよびアレン・ドーフマン、アーウィン・ウィーナーらが、各々の子会社を生み出していった。

ムーニーによれば、ホテル開発から健康保険、レストランにいたる多くの幽霊会社が、こうした連中によって立ち上げられ、組合員から金をかすめ取るフロント会社として利用されていた。

そういった会社の大半は、ティームスターズの年金基金から巨額の借金をするためにでっち上げられたもので、金をもらった会社はすぐさま倒産する。

ムーニーは、シカゴ・ティームスターズの年金基金(積立金)をかすめ取るために、レッド・ドーフマンの息子アレンに基金の管理を任せて、必要な時にいつでも使えるようにしていた。

シカゴ・シンジケートは、シアトル出身のタフなオルガナイザーであるデイヴ・ベックを、ティームスターズ国際委員長の座につけた。

そしてベックの右腕として、デトロイトの殺し屋ジミー・ホッファをつけた。

1957年9月、ベックに対する当局の締め付けがきつくなってくると、目先を変える意味で国際委員長をジミー・ホッファに替えた。

ケネディ兄弟は、シンジケートと労働組合の癒着を、悪と見なした。

そのためマクレラン委員会の公聴会に次々と証人を召喚して、厳しい尋問をした。

ジャック・ケネディにしてみれば、組織犯罪の撲滅運動の旗手だったエステス・キーフォーヴァーに1955年の(民主党の)副大統領指名選挙で敗北しており、この機会に名を上げておきたかったのだ。

(2018年10月30日に作成)


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