ニューヨーク・シンジケートの内部抗争②
アパラチン事件

(『ダブルクロス アメリカを葬った男』チャック・ジアンカーナ著から抜粋)

1957年5月に、ニューヨーク・シンジケートのボスの1人であるヴィト・ジェノヴェーゼは、子分のヴィンス・”ザ・チン”・ジガンテに(自分のボスである)フランク・コステロの暗殺を命じた。

ところが弾丸は、コステロの頭部をかすめただけに終わった。

コステロは生き延びたが、その後に審問をうけることになった。

狙撃された後でポケットから発見された、ラスベガスのカジノ・トロピカーナの総収入が記載された紙片によって、国税庁が調査に乗り出した。

彼は間もなく脱税で起訴された。

これはジェノヴェーゼにとって勝利だったが、アルバート・アナスタシアがコステロの保護者兼盟友として居るかぎり、コステロを殺すのは不可能だった。

そこでジェノヴェーゼは、今度はアナスタシア殺しを画策した。

マイヤー・ランスキーらボス連中を、「アナスタシアはキューバのカジノ独占を企んでおり、始末したほうがいい」と言いくるめた。

その後まもなく(1957年10月25日に)、アナスタシアはシェラトン・ホテルの床屋で散髪中に殺害された。

このニューヨーク・シンジケートの権力闘争は、タイミングが最悪だった。

マクレラン委員会のおかげで、マフィアは国の監視下にあったのだ。

1957年11月13日に、麻薬取締局のジョーゼフ・アマートは、マクレラン委員会でこう報告した。

「当局は、麻薬密輸などの犯罪を目的として緩やかに組織された集団が存在すると判断しています。

この集団はイタリアに端を発するもので、いまや全国に拡がり、さらに世界的な拡がりを見せています。」

アマートの警告は国民の話題となり、その晩は多くの家庭で「マフィアなんてものが本当に実在するのだろうか」との会話が交わされた。

ところがその翌日、国民は答えを得ることになった。

1957年11月14日に、当のシンジケートは、ニューヨークのアパラチンにボス達が集まって会議を開いた。

アパラチンに居を構えるギャングのジョーゼフ・バルバラの広大な地所の丘の上で、ボス達は会談したのだ。

そこにニューヨーク州警察と連邦財務省が手入れをし、ギャングたちは逃走する羽目になった。

2日後にムーニーは、チャックの経営するサンダーボルト・モーテルに来て、笑いながら言った。

「アパラチンの一件はもう知ってるな。

俺は行く気はなかったんだが、マイヤー・ランスキーとフランク・コステロに頼まれてな。

2人共ジェノヴェーゼの手は百も承知だ、行くはずがない。
といって誰か出ておかないと具合が悪いからな。

それにしてもえらい目に遭ったぜ。
森の中を血相変えて逃げ回る羽目になってよ。」

「そりゃ、とんだ災難だったな。
逃げきれなかった奴も、かなりいたんだろうな。」

「ああ、ジェノヴェーゼの奴はただじゃすむまい」
ムーニーはご満悦の態で椅子の背にもたれ、目を冷たく光らせながら続けた。

「あきれた話だぜ。
ジェノヴェーゼは『ボスの中のボス』になろうと思ってやがったんだ。

コステロを殺そうとしたのも、アナスタシアを殺したのも、そのためさ。

実は、ランスキーとラッキー・ルチアーノ、コステロ、カルロ・ガンビーノ、それに俺で、会合の前に話をつけていたんだ。

ガンビーノと俺が出向いて、あとの面々は欠席する。
俺たち2人はどっち側でもない振りをして、ジェノヴェーゼの出方を見る、とこういうわけだ。

あんな野郎に仕切らせてたまるか。
奴がコステロにした事を忘れるもんか。

もう奴を信用する者はいねえ。俺は今度のことを国中に触れ回ってやる。」

チャックの知るかぎり、コステロはムーニーにとって一番の味方だった。
コステロの敵を片付けるためなら、彼はどんな事でもするはずだった。

この『アパラチン事件』は、ロバート・ケネディとジョン・マクレランが溜飲を下げる一方で、フーバーFBI長官を動揺させた。

ジョン・エドガー・フーバーは何十年もの間、「アメリカに犯罪シンジケートは存在しない」と言い続けてきた。

1950年代初めにキーフォーヴァー議員が「イタリア人による地下組織がある」と主張した時も、一笑に付していた。

それがアパラチン事件で、自らの無知ぶりがさらけ出されてしまった。

ムーニーはいつも、FBIとシンジケートには繋がりがあると語り、フーバーFBI長官も賄賂を受け取っていると洩らしたことがあった。

「何もかもフランク・コステロの思いつきだ。
コステロは、フーバーは抜け目ないが他の政治家やポリ公と同じだと知っていた。

フーバーは、月々の手当を現金で受け取ろうとはしなかった。
だからこっちも工夫し、競馬の八百長レースの情報を渡すことにした。」

ムーニーによれば、コステロはまずアメリカ最大の胴元といわれるフランク・エリクソンから八百長レースの情報を仕入れた。

そしてコラムニストのウォルター・ウィンチェルに情報を伝え、ウィンチェルがフーバーに電話で知らせる。

するとフーバーは車でお出ましになるというわけだ。

「たしかに気の利いたやり方だ。これなら何とでも言い抜けできる。だが、しょせん賄賂は賄賂だ。」
ムーニーは葉巻をくわえながら言った。

これほどアパラチン事件が注目を浴びた以上、フーバーも黙ってはいられまい、というのがムーニーの見方だった。

「とりあえず奴も、格好をつけるしかないだろう。
今までの関係はうっちゃっといて、マフィアと戦っていると世間様に認めてもらう必要がある。

これまでは持ちつ持たれつだったが、いまや事情が違う。

こんなゴタゴタを起こした張本人がボビー・ケネディだってことは、この際論外だ。
フーバーは間違いなく手を打ってくるぞ。」

1957年11月27日に、フーバーはムーニーの予測通りの動きに出た。

「主要ギャング撲滅計画(THP)」を打ち出し、FBIとして正式に攻撃をかけたのである。

さらにフーバーは、FBIがマフィアの情報を何も持っていない(意図的に見逃してきた)ことを誤魔化す意味で、離れ業をやってのけた。

組織犯罪に「ラ・コーサ・ノストラ」(イタリア語で我々の家という意味)という新たな名前を付けたのだ。

そうすることで、あたかも豊富な情報を握っているような印象を与える事に成功した。

実際のところ、裏社会では誰一人として「ラ・コーサ・ノストラ」という呼び名を聞いたこともなかった。

シンジケートに対する監視が強化され、1958年4月にはムーニーに対しても召喚状が発せられた。

しかしムーニーはあまり心配せず、「召喚状を受け取るつもりはない」とチャックに洩らした。

「奴らも一応の体裁をつける必要があるのさ。

マレー・ハンフリーズの話じゃ、こっちが目立たずに大人しくしていれば、所在不明ということにしておくとジョー・ケネディから言質をとってるとの事だ。」

ムーニーはアルバート・アナスタシアの死後、ニューヨークではカルロ・ガンビーノといっそう固く手を結んだ。

ガンビーノとは、ヨーロッパにおける麻薬密輸やギャンブル事業で提携した。

ムーニーの国際的な事業には、大概マイヤー・ランスキーが噛んでおり、その時々に応じて必要な人物が加わった。

(2018年10月30~31日に作成)


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