(『ダブルクロス アメリカを葬った男』チャック・ジアンカーナ著から抜粋)
1958年の春のある日、殺し屋のウィリー・ポテトズがサンダーボルトにやってきた。
そして「ニューヨークで何が起きてるか知ってるか?」という。
チャックらは「知らねえな」と答え、話すよう促した。
ポテトズは声をひそめて言った。
「ムーニーとニューヨークのボス連中が、ヴィト・ジェノヴェーゼを嵌めたんだ。
麻薬のおとり捜査でな。
ムーニーはプエルトリコ人のたれ込み屋を雇い、ジェノヴェーゼを嵌めた。
ニューヨークの奴らは、一人頭25ドルづつ出し合って、たれ込み屋にこの先毎月3000ドル出すって約束した。」
ムーニーは、ジェノヴェーゼを嵌めるようポテトズに命じ、それを受けてポテトズは子分の1人でヤクの売人をしているネルソン・カンテロプスを使った。
この作戦では、ニューヨーク・シンジケートのボスであるマイヤー・ランスキー、カルロ・ガンビーノ、フランク・コステロ、ラッキー・ルチアーノが軍資金を出し合った。
そして人材を提供したムーニーは、報酬として(キューバの)ハバナの(カジノや麻薬密輸の)上がりの5%を受け取ることになった。
ヴィト・ジェノヴェーゼは逮捕され、フランク・コステロの証言がものをいって15年の禁固刑を受けて、獄中暮らしを続けて1969年に刑務所で死亡した。
ヴィト・ジェノヴェーゼを片付けたことは、ムーニーにとって大きな前進だった。
「俺に楯突く度胸のある奴がいるとすれば、あの男だけだったろうな」と、ムーニーは後に言った。
もう1人、ジョー・ボナンノ(ニューヨークのボスの1人)もムーニーと折り合いが悪かったが、ムーニーは「奴はからっきし意気地のない野郎で、数の内にも入らねえ」と無視していた。
ボナンノは以前、アリゾナ州でムーニーと対立した事があった。
アリゾナはラスベガスと同様に『オープン・テリトリー』で、誰でも力のある者が支配できる街だ。
ムーニーはチャック・イングリッシュを送り込み、不動産取引、ジュークボックス、自動販売機の事業をやらせていた。
ムーニーがジェノヴェーゼを殺そうとせず、ボナンノにも寛容な態度を示しているのは、マクレラン委員会を意識してのことではないかと、チャックはにらんでいた。
現に彼は、「証人喚問を避けるためには鳴りをひそめている必要がある」と口にしていた。
1958年8月には、トニー・アカードらムーニーの仲間の多くがマクレラン委員会で証言する羽目になり、ムーニーも重圧を感じていたのだ。
(2018年11月5日に作成)