(『ダブルクロス アメリカを葬った男』チャック・ジアンカーナ著から抜粋)
ムーニー(サム・ジアンカーナ)は、配下の者が売り上げの一部をごまかす位なら、見て見ぬふりをしていた。
「少々くすねられたところで、金は儲かる」と、口癖のように言っていた。
だが、あまり図に乗るようだと容赦しなかった。
ラスベガスにおけるガス・グリーンバウムのごまかしは、見逃せないとムーニーは判断した。
元々ラスベガスは、食堂とガソリンスタンドがあるだけの街道の休憩所だった。
1940年代の初めに、マイヤー・ランスキーはそんな田舎町を開発する夢を抱いた。
ギャンブルのメッカにしようと考えたのだ。
第二次大戦が終わるとランスキーは、プレイボーイでならずギャングのバグジー・シーゲルをラスベガスに送り込み、シンジケートの資金600万ドルを投じて最初のカジノ・ホテルとなるフラミンゴを建設させた。
その後、フラミンゴの損失が商売上のものではなく、シーゲルが私腹を肥やすために上前をはねているからだと判明すると、シーゲル暗殺命令が連名で発せられた。
シカゴ・シンジケートも兵隊2名を派遣し、シーゲルは1947年6月20日にビバリーヒルズで殺害された。
各都市のボスはさっそく密使を派遣し、投下資本の保護など事態の収拾にあたらせた。
この時にシカゴは、ガス・グリーンバウムを派遣した。
彼はかつてはアル・カポネの手下で、禁酒法時代に出世した男である。
グリーンバウムは腕利きのギャンブラーで、所得隠しの腕も一流だった。
フラミンゴの支配人となった彼は、初年度に400万ドルの売り上げを申告したが、実際は1500万ドルに上っていた。
ラスベガスで非課税の莫大な金が儲かると分かると、ギャングの資本がどっと投下された。
次々とカジノやホテルが建てられ、瞬く間にギャンブル天国の地となった。
全てはシンジケートが仕切っており、その状況はFBIの手でシンジケートが封じ込められた1970年代まで続くことになる。
当初、デザート・インはクリーヴランドのモー・ダリッツが経営し、サンダーバードはマイヤー・ランスキーが支配した。
デューンズはニューイングランドのファミリーが取り仕切り、サンズはランスキーとフランク・コステロが共同経営して俳優のジョージ・ラフトと歌手のフランク・シナトラも出資者に加わっていた。
スターダストはムーニーがシェアの大半を占めてしまい、トロピカーナはコステロとフィル・カステルが支配していた。
シカゴ・シンジケートは、労働組合の年金基金を着服し、それをサハラ、リヴィエラ、シーザーズ・パレスに投じていた。
1953年にムーニーは、配下のマーシャル・カイファノをラスベガスに送り、その後にジョニー・ロゼリも送り込んだ。
さらにジョー・ピニャテロ、ジョニー・フォーモサ、ガス・ザッパス、ジミー・ジェイムズ、ジョン・ドゥルーらも送り込まれた。
58年にはラスベガスにおけるムーニー個人の取り分は、1ヵ月あたり30万ドルを上回った。
1952年にシカゴはリヴィエラを手に入れたが、ムーニーはガス・グリーンバウムを支配人にした。
しかし裏切り者のウィリー・ビオフがグリーンバウムの下で働いている事をカイファノに発見されてからというもの、グリーンバウムの運勢は急速に下降線を辿った。
アルコールと麻薬に溺れ、リヴィエラの上前をはねるようになった。
ムーニーと同じくリヴィエラに出資していたマイヤー・ランスキーは、グリーンバウムを処分することでムーニーと合意した。
そしてシカゴの処刑人が1958年12月に、フェニックスにあるグリーンバウムの自宅を襲った。
グリーンバウム夫妻は凄惨な拷問の末、バラバラ死体となって発見された。
(2018年11月6日に作成)