(『ダブルクロス アメリカを葬った男』チャック・ジアンカーナ著から抜粋)
1960年12月の「ロバート・ケネディが(ケネディ新政権の)司法長官に就任した」というニュースは、ムーニーにとって闇討ちも同然だった。
大統領選以降の柔和な態度が、あっという間に鳴りをひそめてしまった。
彼は激しい怒りを煮えたぎらせ、ケネディ家との連絡役をしているフランク・シナトラを呼びつけて問い詰めた。
年が明けると、ムーニーはホワイトハウスに出向き、ケネディ大統領と会って密談した。
しかし懸念は軽減せず、失意のうちにシカゴに戻ってきた。
ボビー(ロバート・ケネディ)を司法長官に据える理由は、FBIを使ってケネディ家が世話になった暗黒街の人間を葬り去るためとしか考えられなかった。
ムーニーは、ボビーが目の前に立ちはだかるべく配されたとの結論に近づきつつあった。
「ジョー・ケネディの奴、なかなかの手際だな。
ボビーを使って、自分たちの汚い過去を拭い去る肚だ。
しかも、そいつをマフィアに対する戦いという図式でやろうって魂胆だ。実に見事だ。」
ムーニーの声には悔しさが滲み出ていた。
だがケネディ大統領は、不可解な行動に出た。
ジュディ・キャンベルを使って、FBIの秘密メモの写しをムーニーの許に届けるようになったのだ。
ケネディは、アンジー・ディキンスンやマリリン・モンローまでも、ムーニーとの密使として使った。
大統領から送られてくるFBIレポートは、驚くべき内容だった。
詳細かつ広範囲にわたるGメンの調査ぶりに、ムーニーは目を見張らされた。
これは身内の中に最低1人は密告者がおり、しかももっと多くのインフォーマーを作るべく動いていると見るしかなかった。
ムーニーは結局、このレポートを大統領との揺るぎない関係を証明するものと解釈した。
FBIの捜査状況を逐一知らせるとジャックに約束させていたため、ひとまずこれでFBIの先手を打てると安心したのだ。
後に判明するように、このレポートはFBIメモから慎重に取捨選択されたものにすぎなかった。
例えば、ムーニーが贔屓にしている店に仕掛けられた盗聴装置に関しては、いっさい言及していない。
その一方で、ボビー・ケネディ司法長官は、ターゲットとすべきマフィアのボスをリストアップし、その筆頭にはサム・ジアンカーナの名前があった。
ボビーはFBIに「ギャング狩りに全力であたれ」と命じ、国税庁の協力をとりつけて脱税の告発にも乗り出した。
ムーニーはFBIレポートを見て、ウィリアム・ジャクソンが裏切りを働いていると判断した。
そしてすぐにジャクソン殺しを請負に出した。
さらにケネディ兄弟への監視を強化するために、元CIAで盗聴の専門家であるバーナード・スピンデルと、私立探偵フレッド・オタッシュに、「ケネディの出入りする所に盗聴装置を仕掛けろ」と指示した。
スピンデルとオタッシュは、CIAとシンジケートの双方からしばしば仕事を請け負っていた。
ムーニーはこれに飽き足らず、ケネディ兄弟の尾行役として、CIA工作員のボブ・メイヒューを選び、探偵チームを組むよう指示した。
このチームにはフレッド・オタッシュやジョン・ダノフも加わった。
ウィリアム・ジャクソン殺しは、シンジケートの仕事でもひときわ残酷なものとなった。
ムーニーは配下のフィフィ・ブッチェリに、「見せしめとして残酷な手口で殺せ。それを写真に撮れ。」と命じた。
体重300ポンドのジャクソンは、精肉工場に引きずられていき、六インチの肉吊り金で宙に引き揚げられた。
ブッチェリと子分はあらゆる道具を使って拷問し、電流の通った牛追い棒を肛門から直腸まで突っ込むことまでした。
丸2日にわたってジャクソンは拷問されて死んだ。
1961年4月4日に、ボビー・ケネディ司法長官の命令で、カルロス・マルセロがグアテマラに強制移送された。
マルセロはムーニー同様に、CIAと一緒に武器や麻薬の密輸をしてきた。
反カストロ派の亡命キューバ人の支援者でもある。
ボビーがマルセロを最初に狙ったのは、マルセロが以前からリンドン・ジョンソンを支援していたからだと噂された。
ムーニーによれば、CIAはマルセロを空路で帰国させたがっているが、カストロ暗殺作戦で忙しくて当面は無理だという。
ムーニーはCIAのキューバ工作に深く関わる中で、自分の配下の「期待の星」であるリチャード・ケインをCIAに派遣した。
ケインは本名をリカルド・スカルズィッティといい、頭が良く5ヵ国語を話せて、シカゴ警察で射撃の訓練を受けていた。
彼はスムーズにCIAに溶け込み、マイアミで亡命キューバ人に軍事訓練をほどこすうちに一人前のスパイとなった。
彼は形の上は、マイアミの私立探偵事務所の正社員だった。
リチャード・ケインは、ピッグス湾侵攻が失敗した後、CIAの口添えでシカゴのクック郡の保安官事務所の主任捜査官となった。
これはムーニーの密かな勝利だった。
なぜならギャング摘発者として有名なリチャード・オグリヴィー保安官の補佐役になったからだ。
ムーニーは敵の懐にスパイを送り込んだのだ。
1961年の春、まもなく行われるキューバ侵攻に備えて、CIAはカストロ暗殺作戦を決行した。
CIAとシンジケートは、すでに長年にわたってイリノイ大学の化学者から毒薬を調達していた。
しかしカストロは自分の飲食物はすべて政治犯に試食させていたため、作戦は失敗した。
カストロ政権は国民に支持されていたので、カストロ暗殺作戦の協力者を見つけるのは大変だった。
カストロに近い人物で寝返ったのはクベラという男だけで、CIAと密会したのがバレて13年の懲役刑となった。
CIAは1961年4月4日に、ついにキューバ侵攻を決断し、ピッグス湾への上陸作戦を行った。
しかしケネディ大統領は、米軍の(ピッグス湾への)空爆中止を命じ、このためキューバ国内の反カストロ武装勢力は見捨てられることになった。
その後まもなく、ピッグス湾侵攻作戦の責任者だったアレン・ダレスCIA長官、チャールズ・カベル副長官、CIA最高幹部のリチャード・ビッセルは、解雇処分になった。
CIAとシンジケートは名誉回復(キューバ利権の回復)を狙って、毒薬の研究やキューバにいる反カストロ勢力への武器密輸、キューバ人亡命者の軍事訓練を強力に進めた。
それだけでなく、両者は打倒ケネディで固く結びつく事になった。
(2018年11月9日&11日に作成)