(『ダブルクロス アメリカを葬った男』チャック・ジアンカーナ著から抜粋)
ムーニー(サム・ジアンカーナ)とケネディ政権は敵対していたが、ムーニーとCIAは親密な関係を続けていた。
1962年も多くの秘密工作で協力していた。
シンジケートは、CIAの武器密輸や闇資金の洗濯で大きな役割を果たしていた。
ムーニーは、ニューヨーク・シンジケートのボスの1人であるカルロ・ガンビーノと共に、シシリー・マフィアでバチカンのコンサルタントをしているミケーレ・シンドナのことをCIAに教えた。
そしてバチカン銀行と不正取引をし、CIAの闇資金をそこに投じた。
これにより、CIAはカトリック教会(バチカン)の事業に深く関与することになった。
CIAに協力した事は、1962年5月に大きく報われることになった。
ボブ・メイヒューとムーニーが盗聴で告訴された裁判を、CIAが打ち切らせたのだ。
「奴らは危険を冒して片をつけてくれた。これぞ忠義の見本だ」とムーニーは評価した。
この盗聴事件は、コメディアンのダン・ローワンの家を盗聴したのがバレて告訴されたのだが、この頃ムーニーはローワンが恋人のフィリス・マクガイアと隠れて付き合っていると疑っていた。
その盗聴に、CIA工作員のメイヒューが協力していたのだ。
CIAから「この盗聴にはCIAが関与している」と言われたボビー・ケネディ司法長官は、反響を恐れて裁判を中止にした。
ムーニーは1960年の大統領選の前から、ケネディ兄弟の性生活を監視させていたが、チャックを前に復讐の宣戦布告をした翌週に、集めたデータを暴露しようとした。
ケネディ王朝をスキャンダルで叩き潰そうとしたのだ。
しかし、CIAからストップがかかった。
もしケネディ家の所業を暴露すれば、盗聴した事も明らかになり、CIAとシンジケートの繋がりも分かってしまう。
するとムーニーは、今度はマリリン・モンローを使ってケネディ家を破滅しようと考えた。
モンローは、昔からシンジケートと関係があった。
彼女のデビューのきっかけは、ジョー・シェンクというプロデューサーとの関係からだ。
ジョー・シェンクはムーニーもよく知る人物で、1940年代にはブラウン=ビオフ事件で有罪になった男である。
シェンクは、マリリン・モンローをプロデューサー仲間のハリー・コーンに紹介し、2人で交互に彼女を映画の端役に起用した。
1953年にセンセーショナルなヌード・カレンダーと映画『イヴの総て』で知名度を高めると、モンローは映画『ナイアガラ』のヒットで本格スターとなった。
ムーニーによれば、モンローは孤独な女で、自分の保護者と思った男が結局はみな迫害者でしかない事に気付く人生だったという。
彼女は1950年代終わりから60年代初めにかけて、CIAやシンジケートに利用された。
彼女の性的魅力を利用して、CIAは各国の指導者を陥れようとしたが、その中にはインドネシアのスカルノ大統領もいた。
モンローは、1960年夏にジャック・ケネディの愛人になり、62年3月にはボビー・ケネディとも性関係を持つようになった。
そこでムーニーは、モンローを使おうと考えたのだ。
1962年6月になると、モンローの女優としての評判はすでに下降線を辿っていた。
仕事をすっぽかし、麻薬に溺れ、精神を病んでいた。
7月にはボビーとの関係も切れ、ボビー相手に「何もかも暴露してやる」と脅しの言葉も吐いた。
それを知ったCIAは、麻薬中毒のモンローが関わった様々なCIAの工作を暴露するのを恐れて、ムーニーに殺すよう依頼した。
ムーニーは、「この殺しを使ってケネディ兄弟を退陣に追い込める」と考え、引き受けた。
マリリン・モンローは死の1週間前、空路でタホー湖のカル=ネヴァ山荘に飛んだ。
そこでフランク・シナトラ、ムーニー、ピーター・ローフォードと会った。
ディナーの席でモンローは正体をなくすまで酔い潰れると、その夜にムーニーを悩殺しベッドに誘った。
ムーニーは「モンローとはそれまで何度も寝たことがあったが、彼女をこれほど奪いたいと思ったことはなかった」と言う。
ケネディの持ち物は何でも奪えると確信したかったのだ。
その1週間後、モンローは自宅で死体となって発見された。
大量の睡眠薬を飲んで自殺をはかったというニュースが飛び交ったが、チャックはチャッキー・ニコレッティ(ムーニー配下の殺し屋)から真相を聞いた。
ムーニーとモンローがカル=ネヴァ山荘で寝た数日後に、CIAからムーニーに連絡があった。
「ボビー・ケネディが週末の8月4日にカリフォルニア入りする」と。
ムーニーはすぐさまカリフォルニアに飛んだが、配下の殺し屋ニードルズ・ジアノーラも3人の男を連れてカリフォルニア入りした。
ジアノーラが連れて行ったのは、相棒のマグシー・トルトレーラ、カンザスシティの殺し屋、デトロイトの殺し屋だ。
ジアノーラ達は、バーニー・スピンデルの仕掛けておいた盗聴装置により、モンロー家の内情が分かった。
ボビー・ケネディは、4日の遅くにモンローの家に着いたが、男を1人連れていた。
やり取りを聞くと、モンローは興奮していて、ボビーをヒステリックになじった。
ボビーは医者とおぼしき連れの男に、「注射を打って彼女を落ち着かせろ」と指示した。
それからほどなくボビーと男は帰っていった。
殺し屋たちは、午前0時になってからモンロー宅に侵入し、ぐったりしていたモンローを裸にしてベッドに運んだ。
そして毒薬入りの座薬を肛門に挿入した。
この毒薬は、カストロ暗殺のためにCIAお抱えのシカゴの化学者が作ったものだが、見事な効果だったという。
致死量の睡眠薬を口から服用させるのでは、嘔吐することも考えられる。
その点、座薬なら吸収されて血管に入り込むし、胃から検出されることもない。その上に注射並みの速効性がある。
挿入後まもなく、モンローは死亡した。
それを確認してから殺し屋たちは消え去った。
ムーニーは、「モンローが死ねば警察が呼ばれるはずだ。そして捜査が始まれば、ボビー・ケネディが数時間前に訪ねていたと分かり、致死量の鎮静剤を打たせて死なせたと嫌疑がかけられる可能性がある」と踏んでいた。
しかし、事はそう運ばなかった。
殺し屋たちは電話を盗聴していたが、ボビーはモンローの死を知るとFBIを出動させて、ケネディ兄弟との繋がりを示すものをモンロー宅から押収した。
日記や電話記録が処分された。
チャッキー・ニコレッティによれば、FBI捜査官は必死になって証拠湮滅したという。
そしてフーバーFBI長官は、「これでケネディ兄弟の悪事の確証を握った。これからは何事も自分の意のままだ」と喜んだという。
(2018年11月12日に作成)