(『ダブルクロス アメリカを葬った男』チャック・ジアンカーナ著から抜粋)
1962年の晩夏になると、チャック一家もFBIの監視下となった。
するとムーニーは、チャックの経営するサンダーボルト・モーテルを売り払えと命じた。
「あのモーテルはGメンがうようよしてやがる。あれは売ってしまえ。
また他の仕事を見付けてやるさ。」
チャックは言われた通りに、10月上旬に50万ドルで売りに出したものの、失業すると思うと居ても立っても居られなかった。
今度こそ合法的な職に就きたい旨をはっきりとムーニーに伝えよう、とチャックは決めた。
この頃、ムーニーはスター総出演の一大イベントを行った。
「ヴィラ・ヴェニス」の新装開店オープニング・ショーである。
シカゴ北西のウィーリングという街にあるヴィラ・ヴェニスは、25万ドルをかけて改装され洒落たナイトクラブに変身した。
そのオープニング・ショーでは、エディ・フィッシャー、フランク・シナトラ、ディーン・マーティン、サミー・デイヴィス・ジュニアらの歌手が舞台を飾った。
こうした有名人たちは、多くがムーニーから借金していた。
ヴィラ・ヴェニスに来た客は、希望する面々は近くの賭場に案内された。
それもあって、月末にムーニーの懐に入った上がりは非課税で300万ドルを超えた。
後日マスコミは「有名スター無料出演」と報じたが、ムーニーによれば出演料として現金で一人頭7万5千ドルずつ支払ったということだ。
ムーニーはエンターテイナーを含め、働きのあった人間にはいつも必ず報酬を与えることにしていた。
借りを作りたくなかったからだ。
ムーニーは、ケネディ家との仲介役にしたフランク・シナトラの失敗に愛想を尽かしていたが、金儲けとなると別問題だった。
スターを使う事については、完全にビジネスと割り切っていた。
1963年の春先になると、サンダーボルトは55万ドルで売れた。
買い手は、ローズモント市長のドン・スティーヴンスと州道建設事業の大立物ジョー・グレコだった。
1963年6月に、ムーニーは驚きの行動にでた。
司法省を相手どって、FBIの執拗な尾行は人権侵害だと訴訟を起こしたのだ。
これには義理の息子で顧問弁護士をしているトニー・ティスキの助言があった。
『前代未聞、大物ギャングが政府を訴える』と、シカゴの新聞各紙がトップで囃し立てた。
チャックも度胆を抜かれたが、ムーニーは自信満々でこう説明した。
「俺は、パンドラの箱を手にして証言台に立つ。
箱を開けたが最後、ケネディ家の汚い秘密がぞろぞろ出てくる。
だから、ボビーの奴は手を引かざるをえない。」
実際にボビー・ケネディ司法長官は手を引き、FBIの監視を縮小すべきとの裁定が下った。
しかし、夏になると控訴審で裁定がくつがえり、再びFBIの尾行が始まった。
チャックは、いつまでも仕事の口は回ってこず、悶々と待ちわびる日々が続いた。
夏から秋にかけては、シンジケートの経営するバーか賭博場に入り浸って、退屈な日々を紛らわしていた。
すると「ムーニーがケネディ兄弟を殺るらしい」との噂が耳に入ってきた。
1963年11月22日に、チャックはカー・ラジオでケネディ大統領が狙撃された事を知った。
驚きはなかった。
シンジケートの者は口々に「誰かがケネディの野郎を片付けなきゃだめだ」と言っていたから、「やっぱりそうなったか」としか感じなかった。
オズワルドが単独犯と発表され、マスコミが精神分裂症患者だと書き立てると、チャックの脳裏には1933年のシカゴ市長アントン・サーマックの暗殺事件の顛末がよぎった。
オズワルドは、サーマック殺しの犯人となったジョー・ザンガラを連想させた。
ザンガラのことは、子供の頃にムーニーから話を聞いたが、政治的狂信者に仕立てられたカモで、実際は酒の密売人にすぎず、シンジケートから大金を借りていて命令を断れなかったのだ。
オズワルド同様、この男も腕のいい狙撃手と言われた。
ケネディ暗殺後、国民が見え透いたからくりにあっさり騙された事に、チャックは唖然となった。
シンジケートの欠点は、いつも同じ手口を使うことだ。
それさえ分かっていれば、意表をつかれることはない。
(ムーニーとも知り合いのマフィアである)ジャック・ルビーが、テレビ放映中にオズワルドを射殺した時、チャックにはもはや疑う余地はなかった。
ムーニーが殺しを指示したのだ。CIAも知っていたはずだ。
(2018年11月14日に作成)