ムーニーはメキシコに移住するが、
チャックにケネディ暗殺の真相を語る

(『ダブルクロス アメリカを葬った男』チャック・ジアンカーナ著から抜粋)

ケネディ暗殺が起きてからも、チャックが失業中なのは続いた。

1964年の秋になってようやく、ムーニーから「シカゴの建設業者に会ってみろ」と指示を受けた。

その中にはサム・ペゼッテも含まれていて、一緒に建設プロジェクトをすることになった。

チャックはムーニーを訪ねて、「プロジェクトの収益の3分の1を貢物として納めたい」と伝えた。

シンジケートでは、自分のボスに貢物を納めるのは常識で、そうすることで安全保障と信用を添えることができた。

しかしムーニーは、あっさりとチャックの申し出を退けた。

こうしてチャックは、42歳にして初めて1人立ちする事になった。

その後にチャックたちは、38軒のアパートを建設・販売し、ショッピング・プラザの開発もした。

一方ムーニーは、1965年5月に恐喝について司法省から調査され、文書破棄罪で告発された。

翌月、不訴追特約を認可されたにも関わらず証言を拒否したため、法廷侮辱罪でイリノイ州のクック郡刑務所に拘禁された。

ムーニーは1年後に出所してきたが、チャックの家に立ち寄った。

兄弟2人は思い出話に花を咲かせたが、だしぬけにムーニーは宣言した。

「俺は行くことにした」

「行くって、いったいどこへ?」チャックは思わず声を張り上げた。

ムーニーの言葉には、なにか決定的な響きがあった。

「メキシコに行く。

ハンラハンがあれっきり俺を追及しなかったのが、妙だと思わなかったのか。
奴がその気になってりゃ、俺を一生ブタ箱送りにできたはずだ。」

チャックは頷いた。
ハンラハン連邦検事が、再度の不訴追特約の申請を出そうとしない事は、驚きだった。

ムーニーは満足気に言った。

「もう1度俺に不訴追特約を出すことを、ハンラハンもGメンも望んでいた。

ところがCIAが、司法省にコネを使ったわけだ。

俺は今、(部下の)リチャード・ケインに手伝わせて、CIAとシンジケートの共同事業を世界中で進めようとしている。

もうすでに、隠れ蓑にはもってこいで資金調達もさせられる大企業を押さえてある。

こいつは金になるぞ。何十億ドルって金だ。

アジア、ヨーロッパ、中東、南米。
これからは外国だぜ、チャック。

アジア方面では、サントス・トラフィカンテと組み、ヴェトナム戦争で金儲けする。

麻薬では、ラテン・アメリカでカルロス・マルセロの協力も取りつけた。

カルロ・ガンビーノとは、中東で協力することになっている。

シカゴは、(手下の)ティーツ・バタリアに任せることにする。」

ムーニーとバタリアは長い付き合いだ。

チャックが、CIAと組んでさらに悪事を進めようとするムーニーを皮肉ると、ムーニーは顔色を変えて席を蹴り、チャックの傍に来ると声を押し殺して言った。

「聞かせてやろう。
ケネディを始末したのは俺たちだ。仲良く協力してな。」

そう言うと残酷な笑みを浮かべた。

チャックの頭の中は、一瞬真っ白になった。

アメリカ政府とシンジケートは、やはりコインの表と裏だったと思い知り、何も言葉が出てこなかった。

それから1時間にわたり、ムーニーは闇に葬られていた真相をチャックに明かした。

まずジャック・ルビーだが、彼がシカゴ・シンジケートの一員で、ムーニーの手先としてダラスで活動している事は、チャックも知っていた。

ルビーは、ダラスでストリップ劇場や賭博場を経営し、シンジケートとCIAに麻薬を流していた、とムーニーは言う。
シンジケートには武器も流していた。

この活動はムーニーの指示の下、少数の配下を媒体ルートにして進められた。

その顔ぶれは、レニー・パトリック、デイヴ・ヤラス、ポール・ジョーンズ、ルイス・マクウィリー、レッドとアレンのドーフマン兄弟である。

ムーニーはジョニー・ロゼリを、カルロス・マルセロやサントス・トラフィカンテやCIAとの仲立ちとして使った。

ケネディ暗殺におけるシンジケート側の責任者(現場責任者)には、ジャック・ルビーを指名した。

そしてレニー・パトリックら上記の面々に、「ルビーの下でダラスにおいてCIA工作員と協力しろ」と命じた。

ムーニーによれば、ジャック・ルビーは選ばれるべくして選ばれた男だった。

かつてピッグス湾侵攻でもCIAと共同作戦をしていたし、CIAとの共同任務で本領を発揮していた。

そしてルビーは、CIAの秘密作戦を通じてオズワルドらCIA工作員と親しくなっていた。

事実ルビーは、CIAに雇われていたパイロットのデイヴィッド・フェリーを、自分の経営する「キャラセル・クラブ」で一時期働かせていた。

しかしムーニーが、ルビーをケネディ暗殺の責任者にしたのは、もう1つの理由があった。

それは、ダラス警察の関係者との親密さだ。

ルビーはダラスに来た当初から、シカゴの指令通りに地元の警察に取り入り、ファースト・ネームで呼び合う間柄になっていた。

ムーニーはこうした関係こそが、暗殺後に現場に居る警察と起きうる問題の克服に貢献すると見ていた。

ルビーは責任者を務めたからこそ、オズワルドが生け捕りにされた時に口封じ役が回ってきた。

(※後述するが、ケネディ暗殺作戦ではケネディを殺した後にオズワルドも殺すことになっていたが、失敗してしまい、オズワルドは警察に捕まった)

ジャック・ルビーは、ダラス警察との関係を利用して、オズワルドが護送される際に警察署内に入ることができた。(そしてオズワルドを射殺した)

シンジケートの掟では、不手際をした者には処刑人が送られる。

ルビーは処刑人に殺されるくらいなら、殺人犯として刑務所で死ぬほうがマシだと考えたのだ。

ムーニーによると、オズワルドはルビーと同様に、CIAとシンジケートの双方に繋がりがあった。

オズワルドの叔父はカルロス・マルセロの手下で、父親のいない彼に大きな影響を与えた。

そしてオズワルドは、早くからCIAと繋がり、1950年代後半に米軍の海兵隊に入ると日本に行き、(在日米軍の)海軍情報部でスパイとしての徹底した特訓をうけた。

その後にソ連に行ってスパイをしたが、特訓の甲斐あって流暢なロシア語を話した。

ソ連から帰国すると、CIAの手配でムーニーもよく知っているガイ・バニスターに引き合わされた。

ガイ・バニスターの探偵事務所は、CIAの秘密工作の隠れ蓑であり、同時にシンジケートと亡命キューバ人の秘密工作の隠れ蓑でもあった。

ボブ。メイヒューの探偵事務所も、同じ目的で使われていた。

いずれも、CIAとシンジケートの活動をカムフラージュしつつ、CIAに最高の工作員を世話する機関だった。

オズワルドは、CIAによってダラスに派遣され、ジャック・ルビーとキャラセル・クラブで会い、デイヴィッド・フェリーとの旧交を温めた。

さらにオズワルドは、ムーニーの仕事仲間でもある亡命ロシア人でCIAスパイの地質学者ジョージ・デ・モーレンシュルトとも引き合わされた。

ムーニーは言った。

「モーレンシュルトのおかげで、俺はオイル・マネーをたんまり稼がせてもらった。

奴はテキサスに油田主の知り合いがごろごろいて、何人も紹介してくれたんだ。」

ムーニーの仕事仲間だった油田主には、シド・リチャードソン、H・L・ハント、クリント・マーチンソン、マイク・デイヴィスがいた。

ムーニーによると、ジョンソン副大統領やジョン・コナリー(海軍長官をし、その後にテキサス州知事)も、シンジケートおよび油田主たちと親交があった。

ケネディ暗殺の軍資金は、テキサスの右翼の油田主が提供したという。

ムーニーは、ジョニー・ロゼリをニューオーリンズに派遣して、オズワルドを下見させた。

「(ケネディ暗殺の表向きの犯人を)誰にするか、マルセロの考えを聞いたら、オズワルドがいいと言う。

ガイ・バニスターも賛成で、ロゼリもうってつけの男だと評した。」

ロゼリはその後、何度かバニスターの事務所に、ケネディ暗殺の準備で出向いた。

一般の定説に反して、オズワルドは頭の切れる男だったという。
だが、頑なな愛国心と従順な性格のため、人に操られやすい男だった。

1963年の初春に、シンジケートとCIAの間でケネディ暗殺の決行が最終合意に達し、オズワルドがカモとして選ばれた。

「オズワルドには、いかれた赤に仕立てられる下地があった。

ロシアに行ってたし、カストロ支援の運動にも関係してた。

だから世間に対して、奴を赤だと思わせることに何の問題もなかったわけだ。」

ムーニーによれば、ケネディ暗殺作戦の会合には、元CIA副長官のチャールズ・カベルも参加し、海軍情報部のアジア担当高官も参加したという。

ムーニーの意を受けてジョニー・ロゼリは、マルセロやトラフィカンテやジミー・ホッファとも連絡を取っていた。

この陰謀には、CIAの最高幹部も関わっていて、CIAのOBや、ジョンソン副大統領やリチャード・ニクソンも加わっていた。

「シンジケートとCIAは、様々な局面で一心同体で活動してきた。

実際には白も黒もなく、そんなものはアホどもの執着する建前にすぎねえ。」

フランク・フィオリーニも、ムーニーの配下であると同時に、CIAにも雇われていた。

彼は後に、ウォーターゲート事件にフランク・スタージスという偽名で関わることになる。

ケネディ暗殺作戦は、決行場所としてはマイアミ、シカゴ、ロサンゼルス、ダラスと、いくつかの都市が候補に挙がった。

ダラスが条件に一番恵まれていたので、結局そこに決まった。

「暗殺決行の直前に、ダラスで何度かニクソンとジョンソンとも顔を合わせた。

だから奴らも全てを知っていた。」

ムーニーは、暗殺の実行犯についても話した。

「暗殺の人手は、CIAとシンジケートで出し合った。

俺はシンジケート側を引き受けて、ジャック・ルビーらを投入した。

ダラス警察の幹部や、アール・カベル市長も協力した。

カベル市長は、大統領パレードの警護を手配したが、警備が手薄になるよう手を打った。
あれじゃあ4つのガキでもケネディを殺れただろうよ。

俺は各方面に殺し屋を要請したが、シカゴからはリチャード・ケイン、チャッキー・ニコレッティ、ミルウォーキー・フィルを参加させた。

ケインとニコレッティは狙撃手として教科書倉庫ビルに配置されたが、あそこから発砲したのは実はオズワルドではなくケインだ。

フィルは予備兵として、狙撃手に邪魔が入った場合に備えて、武装して待機してた。」

チャックは後日にシンジケートの噂で知ったが、射撃の名手という条件で要請された殺し屋を、カルロス・マルセロとサントス・トラフィカンテも用意したという。

マルセロは、手下のチャールズ・ハレルソンとジャック・ローレンスを狙撃手として選んだ。

トラフィカンテは、キューバ人亡命者を2名、狙撃手として用意した。
1人は元ハバナ警察の助手でギャングに転身した男、もう1人はアメリカ税関の悪徳職員だった。

ムーニーは、CIAも殺し屋を用意したという。

「CIAは、フランク・フィオリーニとリー・オズワルドを雇い、そこにダラス警察にいたCIAスパイのロスコー・ホワイトとJ・D・ティピットを加えた。

CIAは、オズワルドを単独犯に仕立てる肚だった。

ホワイトとティピットはケネディ暗殺後に、職務と正当防衛を理由にしてオズワルドを殺す事になってた。

しかし怖気づいたティピットはオズワルドを逃がしてしまい、ホワイトが相棒を殺す羽目になった。
あれが、この大仕事の唯一のヘマだったろうよ。

CIAの上層部は、電子機器に囲まれたホテルの一室に籠っていて、無線電話で状況を把握してた。」

呆然としながら話を聞いているチャックを見て、ムーニーはそっぽを向いた。

やがてまたチャックのほうを向き、あとを続けた。

「ダラスの殺しは、それまでの(シンジケートとCIAの)共同作戦と同じだった。

俺たちは方々の政府を転覆させてきた。
今回はターゲットが身近にあっただけだ。

1963年11月22日にアメリカでクーデター発生、ただそれだけの事さ。

ただし、この事に気付いていた国民はいなかった。」

そして一息つくと、弱々しげな笑みで言った。

「アメリカじゃ、もう先が知れてる。
そこで海外に行って金儲けすることに決めた。

それにだ、なんたってGメンの奴らの尾行におさらばできるからな。」

数日後にムーニーはメキシコに発った。

(2018年11月14~15日に作成)


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