シンジケートとカトリック教会(バチカン)の繋がり

(『ダブルクロス アメリカを葬った男』チャック・ジアンカーナ著から抜粋)

ムーニーの第一の子分に出世したリチャード・ケインは、CIAで働いた事から国際的コネを持つようになり、その一部をムーニーのために利用した。

メキシコのルイス・エチェベリア大統領と、その法律顧問ホルヘ・カスティーヨを、メキシコに移住を決めたムーニーに紹介した。

ムーニーは、カスティーヨの用意したメキシコ・シティの豪華マンションに居を構え、仕事にとりかかった。

CIAが結成したばかりの、ラテン・アメリカ方面での秘密工作用のチームは、「ホワイトハンド」と呼ばれていた。

これはムーニーら「ブラックハンド」との共同事業をもじって付けたものだ。

チャックがシンジケートの知り合いから聞いたところによれば、ムーニーはリチャード・ケインを通訳として同伴し、ラテン・アメリカの沿岸部に賭博場を開設して、武器・麻薬の密売もした。

さらに各地の親米派の富裕層に賄賂攻勢をかけた。

ムーニーら「ブラックハンド」の働きのおかげで、CIAの「ホワイトハンド」はスポンサーであるアメリカ企業が進出する足場作りができた。

わけても大手石油会社は、CIAの協力でやすやすと進出できた。

ムーニーは、アメリカ・メキシコ国境から流出するカネの運搬を、ローマ・カトリック教会に割り当てた。

1965年に、ストリッチ枢機卿はシカゴを離れ、ニューオーリンズの大司教に就任した。

後任のゴディ枢機卿は、腐敗した人物で奢侈を好み、ムーニーとの親密な関係を歓迎した。

ムーニーが長らくカネの運搬係として使ってきたシカゴのキャッシュ神父は、ムーニーのメキシコ移住によりラテン・アメリカも旅程に加えることになった。

チャックはやがて、「シンジケートの巨額の金が、コンチネンタル・イリノイズに流れている」との噂を耳にした。

この銀行は、バチカンも株主として名を連ねるスイスの銀行フィニバンクに巨額の投資をしていた。

フィニバンクは、ムーニーもカルロ・ガンビーノを通して繋がりを持つ銀行で、ミケーレ・シンドーナが管理していた。

シカゴ・シンジケートの金の一部は、ワシントンに運ばれて債券に姿を変え、フィニバンクなどに転送されていた。

また他の金は、神父のローブの下に隠されてシカゴからメキシコに運ばれ、大半はパナマの銀行に入れられた。

金の一部はミラノやローマからバチカン銀行にも入り、そこからフィニバンクやバチカン内で頭角を現してきたシカゴ出身の神父ポール・マーシンカスに転送された。

(※マーシンカスは後にバチカン銀行の総裁になる)

CIAも、マーシンカスやシンドーナと密接な繋がりを持っていた。

1967年2月に、チャック一家を悲劇がおそった。

FBIのたれこみで、シカゴのマスコミが「チャック・ジアンカーナの経営しているショッピング・プラザは、サム・ジアンカーナの資金が流れている」と報じたのだ。

実のところもうチャックは、兄ムーニーと関わりがなかった。

だが、報道を見て保険解除を知った、ショッピング・プラザの手形を持っていた銀行たちは、20万ドルの手形の支払いを請求してきた。

チャックはやむを得ず兄に助けを求めたが、メキシコにいたムーニーの返事は率直だった。
「だめだ、店を処分しろ」

チャックはこれほど腹立たしい思いを味わったのは初めてだった。

一番助けを必要としている時に、ムーニーは背を向けたのだ。

チャックはショッピング・プラザを手放したが、(サム・ジアンカーナの弟と世間に知られて)友人たちからも拒絶されることになり、息子たちも苛めにあった。

チャックは映写技師の仕事に戻り、くる日もくる日も映画館でフィルムだけを相手に1人座った。

自分の人生を振り返れば、ムーニーがいかに破壊的な傷跡を残したかが、今更ながら痛感された。

ムーニーはアメリカを離れるにあたり(1966年に)、ボス代行をティーツ・バタリアに命じた。

しかしその年のうちに、バタリアは財物強要罪で有罪となり刑務所に入った。

ムーニーはその年の晩秋に変装して帰国し、トニー・アカードおよびポール・リッカと会談した。
そしてバタリアの後任を、ジョーイ・アイウッパにすることで合意した。

1967年には、FBIはシカゴ・シンジケートのメンバー24人を起訴したが、その中にムーニーの片腕のリチャード・ケインも含まれていた。

ボスの代理でシカゴに戻ってきたケインは、FBIに捕まり、68年にウィリー・ポテトズと共に有罪判決となった。

ポテトズが15年の刑を受けたのに対し、ケインはCIA仲間の口添えの賜物と噂されたが4年の刑期だった。

ムーニーは、相棒のケインを失っても仕事を続け、リオやアカプルコでマイヤー・ランスキーと会談したり、ローマで法王パウロ六世に会ったり、愛人のフィリス・マクガイアと休暇を楽しんだりした。

1968年7月には、FBIはムーニーをおびき出すために、ムーニーの娘ボニーとその夫トニー・ティスキを巻き込んだ。

ボニー夫妻はアリゾナ州トゥーソンに住んでおり、同じくトゥーソンに居を構えるニューヨーク・シンジケートのボスの1人であるジョー・ボナンノと一緒に、自宅をガンマンに襲われたのだ。

この事件はFBI捜査官デイヴィッド・ヘイルが黒幕だったが、一般にはギャングの抗争と見られ、そう思ったコミッションは緊急会議まで開いた。

ヘイルは事実が発覚すると証言拒否をして退職し、訴追を免れてしまった。

ムーニーは、娘が襲われてもアメリカに戻ってこなかった。

(2018年11月15日に作成)


次のページを読む

前のページを読む

『ケネディ大統領の暗殺事件』 目次に戻る

『アメリカ史』 トップページに行く

『世界史の勉強』 トップページに行く

『サイトのトップページ』に行く