ムーニーは口封じで殺される、シンジケートの麻薬ルート

(『ダブルクロス アメリカを葬った男』チャック・ジアンカーナ著から抜粋)

1971年の後半に、リチャード・ケインは出所したが、すぐにムーニーの通訳に復帰した。

2人が歴訪した国々は、CIAが関心を寄せる国々でもあった。

当時のムーニーは、カルロ・ガンビーノ、サントス・トラフィカンテ、カルロス・マルセロ、ジョニー・ロゼリといったシンジケートのボス達や、CIAの仲間と、緊密な連絡を取っていたという。

ムーニーは1960年になると東洋に進出していったが、これはサントス・トラフィカンテのアジアにおけるヘロイン密輸が大成功している事を示唆していた。

事実、トラフィカンテがCIAと一緒にホンコン、フィリピン、ヴェトナム、ラオスなどで活動していたと指摘する歴史家もいる。

またムーニーは、CIAとシンジケートが共同でテキサス州経由でアメリカにコカインを密輸するのにも関わり続けていた。

この密輸は、南米、コスタリカ、パナマを拠点にしていて、テキサスの沖合油田を利用してアメリカ税関の目をごまかしていたらしい。

カルロ・ガンビーノのヨーロッパにおけるアヘン密輸についても、ムーニーがローマ、ベルン、アテネにしばしば旅行していた事から見て関わっていたと考えられる。

1973年に、ムーニーとリチャード・ケインは仲違いし、ケインはシカゴに戻ってきた。

そしてムーニーの承諾も得ずに、賭博場キプロス=マルタの投資家を募った。

FBIの資料によると、ケインは当時FBIと接触し、「司法省のお抱えになれないか」と打診している。

その後FBIの情報提供者になり、かなりの額のコンサルタント料を受け取り始めた。

ケインが公然とムーニーを非難して、不満分子を仲間に引き入れようとしたのは、シカゴ・シンジケートの内輪もめを狙ったFBIの手引きだったのではないか。

シンジケートの幹部から自重するよう諭されても、ケインは攻撃の手を緩めなかった。

1973年12月20日にリチャード・ケインが殺害された時、日頃の態度が態度なだけに驚く者はなかった。

警察の資料によると、殺人現場はサンドイッチ・ショップで、ケインは数人の男と昼食していた。

その男達が退席し去ったところに、スキーマスクをかぶってショットガンを手にした男2人が入ってきた。
2人は脅える客たちを壁に並ばせた。

目撃者によると、ガンマンの1人は左手に黒の手袋、右手に白の手袋をはめていた。

その男はケインに歩み寄ると、頭をショットガンで2度直射した。

犯人2人はケインのポケットをざっと改めた後、すぐに行方をくらませた。

犯人のしていた白黒の手袋は、メッセージだったに違いない。

それはケインの知り抜いている組織、CIAラテン・アメリカ支局のホワイトハンドと、サム・ジアンカーナのブラックハンドである。

1974年に入ると、ムーニーは体調を壊して旅行できなくなった。

そして7月18日の晩に、メキシコの自宅を入国管理官に襲われ、アメリカに強制送還された。

アメリカではFBIが待っており、シカゴ大陪審に出頭するよう命じられた。

1週間後に出頭したが、不訴追特約を与えられたのに肝心なことは何一つ話さなかった。

1975年になると、ムーニーはさらに体調を悪化させ、2度も手術をうけた。

1975年6月19日に、上院情報特別委員会のスタッフがイリノイ州シカゴに到着した。

5日後に予定されている証人喚問に備えて、サム・ジアンカーナを自宅からワシントンまで護送するのが目的だった。

ムーニーはその晩に、殺し屋に殺害された。

この日、ムーニーは友人や家族を訪ねている。
近く予定されている委員会への出頭でも、何も話さずに終わると思われた。

だが身体の衰えた彼が証言台に立つのは、CIAにとっては脅威だったに違いない。

その日の夜、ムーニーは後頭部に1発、口中に1発、あごの下に5発の銃弾を受けて死亡した。

チャックには、兄ムーニーが騙し討ちにあって殺されたのが信じられなかった。

犯行の状況から見て、犯人はムーニーが信頼していた者に違いない。

新聞はギャングの殺し合いと報じたが、ムーニーは上院の情報特別委員会に証人喚問されたいた。

ムーニーに死んでほしかったのは、ギャング(シンジケート)ではない。
上院でどんな証言をするか懸念していたのは、シンジケートよりも強力なCIAだ。

チャックが耳にしたところによると、ムーニーは殺される前の週にジミー・ホッファの殺しを請負に出した。

この仕事はCIAと元アメリカ大統領(おそらくニクソンのこと)の依頼とされる。

そして1ヵ月後に、ホッファは行方不明となり殺害されたと見なされた。

ムーニーを殺した者を割り出すには、彼の格言が活きるのではとチャックは思った。

「生き残った奴が誰か確かめろ、そいつが犯人だ」

この考えでいくと、明瞭に一人の容疑者が浮かんでくる。

CIAと共謀してきたボスのうち、カルロ・ガンビーノとジョニー・ロゼリは1976年に相次いで他界した。

カルロス・マルセロも病気になっていて、83年6月にテキサカーナ刑務所に収監された。

ただ一人、サントス・トラフィカンテだけが無傷で生き残った。

新聞を見ても、マフィア追放運動の主眼は、トラフィカンテのいるフロリダ州タンパから、ニューヨークやシカゴに移された観がある。
彼は最後まで順調なビジネス活動をし、87年に腎臓病で他界した。

フロリダ州は、トラフィカンテが君臨していた当時、アメリカ有数の麻薬の上陸地点となっていた。

彼はケネディ暗殺にも関わっていたが、なぜか調査されなかった。

ムーニー流の演繹法に従えば、ムーニー殺しをしたのはトラフィカンテになる。
CIAからこの仕事を与えられたのだろう。

犯行に使われた二十二口径の銃の出所がフロリダ州マイアミなのも、単なる偶然ではないはずだ。

トラフィカンテはこの仕事をするにあたり、ジョニー・ロゼリを仲間に引き込んだらしい。

ムーニーは殺される前、「ロゼリとトラフィカンテがいやに親密ではないか」と疑い出していたとの噂が残っている。

シカゴ・シンジケートのロゼリが協力していたなら、ムーニーの顔見知りで油断してしまう殺し屋も派遣できただろう。

そしてロゼリが翌年に惨殺された事も説明がつく。

ジョニー・ロゼリは、1976年にトラフィカンテの地元フロリダで、ドラム缶詰めのバラバラ死体となって海上に浮遊していたところを発見された。

上院情報特別委員会での極秘証言をすませた後のことである。

奇妙なことに、トラフィカンテも上院委員会に呼ばれたが、その後に何のトラブルもなかった。

1977年に入っても暗殺される者が続いた。

ケネディ暗殺の実行犯の1人といわれるチャッキー・ニコレッティは、下院特別委員会による証人喚問が決定した直後に殺された。

さらにジョージ・ド・モーレンシュルトも、喚問の当日に死亡した。

アメリカでは非道がまかり通っている。

ペンタゴン・ペーパーズ、ウォーターゲート事件、バチカン銀行スキャンダル、イラン=コントラ事件、フィリピンのマルコス夫妻の収賄とCIAの繋がり、ノリエガとCIAのパナマ・コネクション、BCCIスキャンダルなどだ。

これらはどれも、CIAと犯罪組織の癒着を裏づけるものだ。

(完)

(2018年11月15日に作成)


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