サム・ジアンカーナは学校を10歳でドロップアウトし、ムーニーという綽名を付けられる

(『ダブルクロス アメリカを葬った男』チャック・ジアンカーナ著から抜粋)

サム・ジアンカーナは、記録によると1908年5月24日に生まれている。

父のアントニオ・ジアンカーナは、シカゴのイタリア人街(パッチと呼ばれる貧民街)で、荷車を使って果物や野菜を売っていた。

パッチの住民は、主としてイタリア南部かシシリー島(シチリア島)の出身だったが、アントニオ夫妻もシシリー島の生まれだった。

シカゴは、アイリッシュやユダヤ人が多かったが、1890年~1910年の間にイタリアからの移民が進み、イタリア人は4万人以上に増えた。

シカゴの警官はほとんどがアイリッシュで、イタリア人を護ってくれなかった。
そのためイタリア人は自衛のために団結した。

サムが2歳の時に、母親は流産がもとで死んだ。

アントニオはすぐにメアリー・レオナルディと再婚した。

メアリーが家にきてから、サムは毎夜、アントニオの烈しい怒声と継母の悲しげな泣き声を聞いた。

アントニオは頻繁にサムを折檻し、小学校の教師にも「厳しく制裁を加えてくれ」と依頼した。

1918年に、学校の教師はサムを手に負えない不良と判決し、6か月間、感化院に送った。

サムはすぐに感化院を飛び出したが、家には戻らず町中をほっつき歩いて暮らすようになった。

その頃、パッチにはイタリア系チンピラの「フォーティツー(42人組)」がいた。

リーダーはジョイ・コラロといい、洗濯物や車を盗み、やがて人殺しも始めた。

人数は20人を超えたことは無かったが、フォーティツーと名乗っていた。

サムはこの一団に身を投じ、車の逃走運転では1番との評価を得た。

ほどなくサムは、警官が正義の味方でも何でもなく、いつも賄賂を欲しがっていると知った。

起訴を取り下げさせるために支払う賄賂の通常レートは500ドルで、彼らに支払いできる額でないので親に泣きつくが、親も金がないので借金に駆け回ることになった。

フォーティツーが手本にしたのは、シカゴの有名なギャング達であった。

売春の親方ビッグ・ジム・コロシモ、彼の甥ジョニー・トリオ、若きアル・カポネ、砂糖密輸の帝王ダイヤモンド・ジョー・エスポズィートらである。

フォーティツーはレストランや玉突き場にたむろし、退屈しのぎに野良猫をもっと残虐に拷問する方法を捜すゲームに熱中した。

1921年になると、13歳のサムはすでに仲間内で最もムーニーつまり「狂っている」と折り紙をつけられ、『ムーニー』という綽名を付けられた。

あの少年は25セントとか1本の煙草を賭けて何でもやる、という評判だった。

(2018年9月26日に作成)


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