(『ダブルクロス アメリカを葬った男』チャック・ジアンカーナ著から抜粋)
シカゴで1番古いギャングは『ブラックハンド』と呼ばれるもので、1890年にさかのぼる。
この集団のやり口はイタリアのシシリー島(シチリア島)から持って来たもので、核心は誘拐と強奪であった。
餌食になったのは善良な移民たちだが、警察はブラックハンドから賄賂をもらって耳を閉ざしていた。
ブラックハンドの中心人物は2人のイタリア人で、ダイヤモンド・ジョー・エスポズィートとビッグ・ジム・コロシモである。
エスポズィートは強奪と賄賂の手法で、政治家や労働組合とつながりを作った。
コロシモは高級売春を扱い、売春宿を企業化した。
コロシモのクラブはエンリコ・カルーソーら有名人の溜まり場で、エスポズィートのクラブ「ベラ・ナポリ」はギャングのリーダー達が会合に使った。
一方、ニューヨークでもギャングが形成され、『ファイブポインツ』のリーダーはコロシモの甥のジョニー・トリオだった。
1909年にコロシモは、トリオをシカゴに招いた。
エスポズィートも1910年に、シシリー島からジェンナ兄弟を呼び寄せた。
1919年になるとトリオは戦力拡充のため、ファイブポインツのメンバーのアル・カポネを招いた。
カポネはファイブポインツの仲間だったラッキー・ルチアーノ、マイヤー・ランスキー、バグジー・シーゲルらと酒の密造で大儲けしていた。
(※当時は禁酒法の時代である)
ジョニー・トリオの魂胆は、アル・カポネと一緒にコロシモを説得して、経営の主力を売春から密造酒に移すことだった。
しかしコロシモは同意せず、トリオは叔父を殺すことにし、コロシモは1920年5月に射殺された。
この後シカゴでは、エスポズィートがギャングのトップに昇った。
彼はキューバからの砂糖密輸を一手に握っていたが、砂糖はアルコールの蒸留に欠かせない原料なので、全米に影響力を持つことができた。
ムーニーは1923年に15歳で、エスポズィートの傘下に入った。
エスポズィートはパッチ地域の密造酒造りを、ジェンナ兄弟に監督させた。
ムーニーは毎週300ガロン以上のアルコールを各家から集めた。
これだけでエスポズィートは年間100万ドル以上の利益を上げた。
パッチの住人たちも1ガロンあたり50セントを受け取った。
シカゴ中のイタリア人はエスポズィートの前にひれ伏していて、恋人や妻をよこせと言われたら差し出した。
エスポズィートは若い花嫁を愛好したので、結婚式のある時は彼に通知された。
もし気に入った花嫁がいれば、新郎よりも先に花嫁と寝させろと、彼は要求した。
後にシカゴ・マフィアの大物となったアル・カポネ、ジョニー・トリオ、ジェイク・グーズィク、ポール・リッカ、マレー・ハンフリーズ、フランク・ネティ、ジャック・マクガーン、トニー・アカードは皆、エスポズィートがニューヨークから呼び寄せたかシカゴで拾い上げた連中である。
中心はイタリア人だが、他の人種もいた。
ジェイク・グーズィクはユダヤ人で、金融のやり手だった。
マレー・ハンフリーズはウェールズ人である。
ダイヤモンド・ジョー・エスポズィートはよく、「クーリッジ大統領と知り合いで、票を集めてやった」と自慢していた。
彼によると、1924年の初秋に(もうすぐ大統領選挙を戦う)ジョン・カルビン・クーリッジ大統領は、「(選挙戦での)援助に対して、どんな謝礼をしたらよいか」と尋ねた。
エスポズィートは「全国にわたって労働組合を乗っ取るのを見逃してくれ」と答えた。
さらに「ボストンのジョー・ケネディ(ケネディ大統領の父)、カナダのサム・ブロンフマンとハリー・ブロンフマン、シンシナティのルイズ・ローゼンシュテール、ニュージャージーのジョー・ラインフェルトにも、酒類密造の権利を与えて保護してくれ」と要求した。
これらの人物は、エスポズィートから砂糖の供給を受けていた。
その後(クーリッジは当選をし)、アル・カポネらは官憲の干渉を受けずに組合を乗っ取っていったし、砂糖を買う連中は安泰だった。
ジョニー・トリオとアル・カポネのグループは、アイルランド人のディオン・オバニオンが率いるギャングと、密造酒の利権をめぐって抗争した。
千人以上のギャングが死に、1924年11月にはオバニオンも殺された。
その後、トリオとカポネは仲違いし、カポネはトリオを片付けようと決意した。
ヒットマンに選ばれたのが、17歳になっていたムーニーであった。
ムーニーはいつもの相棒レナード・ニードルズ・ジアノーラを連れて、1925年1月にトリオを襲撃した。
トリオは一命を取りとめたが、貯めていた4千万ドルを持ってシカゴから逃げ出した。
アル・カポネはジェンナ兄弟も片付けることにし、1925年5月にムーニーらに襲わせた。
アンジェロ・ジェンナはショットガンで射殺され、マイク・ジェンナも殺された。
トニー・ジェンナも射殺され、残った兄弟はシカゴから逃げ出した。
後に彼らはシンジケートから足を洗うと誓約して、シカゴに戻りチーズとオリーブ油の合法的な店を開いた。
(2018年9月26&28日に作成)