(『ダブルクロス アメリカを葬った男』チャック・ジアンカーナ著から抜粋)
ムーニー(サム・ジアンカーナ)は1925年9月に、自動車窃盗で逮捕され、ジュリエット州立刑務所で30日の刑に服した。
これが彼の1つの転機になった。
彼は獄中で「出所したら父親と対決する」と決意した。
ムーニーは家出してからも時々実家に帰っていたが、父親はそれを見つける度にムーニーを殴りつけ追い出していた。
ギャングになった息子と関わりをもちたくなかったのだ。
出所したムーニーがある夜、ずかずかと家の中に入ってくるのを見て、父親のアントニオはかんかんに腹を立てた。
「ここに寄り付くなと言っただろ! それ以上来たらぶん殴るぞ!」
ム-ニーはうっすらと笑って近寄ってると、落ち着いた声で言った。
「もう終わったんだよ、おやじ。
もう俺を痛い目にあわせることはできないんだ。」
アントニオはしばらく口もきけなかったが、やがて「俺を脅したって駄目だ」と言って飛びかかっていった。
ムーニーはあっさりと父親を壁に押し付け、流し台から大型の肉切り包丁を取って、冷たい刃を父親の首に当てた。
「いいか、俺に手を出したら豚みたいに殺してやるぜ。
これからは俺の言う通りにするんだ。
俺は来たい時に来るし、居たいだけ居る。
今日のところは生かしてやるが、その気になればあんたの喉は裂けていたんだ。」
「お前、自分の父親を殺す気か?」
ムーニーは笑って包丁を流し台の中に放り込み、「殺すかどうか、試してみるか?」と言い捨てて出て行った。
次の日曜日にムーニーがやって来た時、空気は一変していた。
アントニオは両腕を広げて息子を迎え、ムーニーは傲然とテーブルの家長の席に座った。
それ以後、ムーニーは好きな時にやって来たが、外ではフォーティツーの連中と強盗に明け暮れていた。
フォーティツーの悪業が新聞で大きく報道されたため、1926年3月にメンバーのピート・ニカストロが警察に捕まり、その2日後にメンバー17人が強盗未遂の容疑で逮捕された。
ムーニーは捕まらずにすんだが、毎日のように刑事が彼を尋問しにやってきた。
ジアンカーナ家の生活は、ムーニーが出入りするようになってからめちゃめちゃになった。
だがアントニオは大人しくしていて、ムーニーが地下室に密造酒の蒸留窯を据えつけた時も、黙ってその窯を操作した。
7月にムーニーは仲間2人と高級洋装店に入り、50着あまりのドレスを盗んだが、警察に見つかり逮捕された。
保釈金は500ドルだったが、アントニオはムーニーに頼まれてダイヤモンド・ジョー・エスポズィートの所に行き、金を借りて保釈金と警察への賄賂を払った。
ムーニーはすぐに帰宅を許された。
エスポズィートに借りを返すため、ムーニーはケンタッキーのルイヴィルまで砂糖を運搬する仕事を引き受けた。
1926年9月の中頃にムーニーは、フォーティツーの仲間と強盗をした。
ところが店主のジラールが銃を持ち出し、銃撃戦になった。
ジラールは死に、ムーニーらは逃げおおせたが、アレックス・バーバという目撃者がいてムーニーらは逮捕された。
保釈金は2.5万ドルだったが、(ムーニーの父の)アントニオは、再び(シカゴ・マフィアのボスの)ダイヤモンド・ジョー・エスポズィートから金を借りてムーニーの身柄を引き取った。
裁判は翌27年の4月に行われることになった。
1926年10月にアントニオの後妻のメアリーが、自動車に轢かれて亡くなった。
その後ムーニーは、残された4歳の弟チャックへの愛着は一層深まった。
1927年になりジラール殺しの公判が近づくと、ムーニーは懲役または死刑になるのを恐れて、目撃者アレックス・バーバを脅した。
しかし効果がなかったので、証言しないでくれれば2千ドル払うと交渉した。
それでもバーバは動じなかった。
ムーニーはバーバを殺すと決意し、フォーティツーのメンバーのディエゴ・リッコがバーバの店へ行きナイフで刺し殺した。
ジラール殺しは証拠不十分で不起訴となり、ムーニーは安堵の胸をなでおろした。
(2018年9月28日に作成)