(『ダブルクロス アメリカを葬った男』チャック・ジアンカーナ著から抜粋)
ムーニーは、フォーティツーを率いてシカゴ・シンジケートに合流したいと考えていた。
自分の王国を築くのを夢見ていたのだ。
そこでフォーティツーのリーダーであるジョイ・コラロを消すことにし、密かに警察に電話して密告した。
その結果、1927年11月にコラロは射殺された。
新聞は「フォーティツーの終焉」と書いたが、ムーニーに言わせれば幸運の到来だった。
ムーニーにとって大きな転機は、1928年3月にアル・カポネから電話をもらった時だった。
「謀反に参加しないか」との誘いの電話だ。
ムーニーは喜んで誘いに乗ったが、謀反の標的はかつて自分を登用してくれた男だった。
この月に、ダイヤモンド・ジョー・エスポズィートは自宅前の歩道を歩いている時に、機関銃で射殺された。
その後、カポネの権力は増し、子分の力も増した。
ムーニーも、パッチ地区で自分の支配力を強化した。
1928年4月に共和党の地方選挙があったが、アル・カポネは現市長のトンプソンと親しく、再選させようとした。
ギャング達は選挙当日に、十分な活動投票人(選挙区を渡り歩いて何回も投票する人)を確保すべく全力を挙げた。
第20区では黒人弁護士オクタヴィウス・グラナディの当選を阻止するため、ムーニーは配下にグラナディを射殺させた。
ムーニーは取り調べを受けたが釈放された。
2ヵ月後の28年6月に、ムーニーは満20歳になった。
グラナディをうまく消した事なとで、カポネ軍団の中でも幹部クラスまで出世し、金もどんどん入って来るようになった。
フォーティツーのメンバーは、彼の後に付いて廻るようになった。
もちろんムーニーに対して競争心を抱く者もおり、9月のある夜、ジアンカーナ家は襲われ、父アントニオの経営するレモンアイスの店が爆破された。
この犯人は、かつてムーニーに裏切られたギャング達だった。
アントニオの商売は灰燼に帰し、彼はどうやって子供たちを食わせていくか心配で夜も眠れなかった。
そしてムーニーを激しく非難し、2人は汚い言葉で罵り合った。
ムーニーはふさぎ込んだり怒り狂うようになり、皿を壁に投げつけたりした。
1928年の末になると、ムーニーの犯罪はますます頻度を増し、強姦、強盗、殺人の容疑でたびたび留置所に入った。
カポネと関係ない犯行も多かった。
保釈金と警察への賄賂はアントニオが工面したが、毎回カポネに借金を頼むわけにもいかず、ジアンカーナ家が困窮した。
ジアンカーナ家には、ムーニーにより様々な盗品が運び込まれ、それで家族が生き延びることでムーニーは支配権を確立しようとした。
ムーニーが居なかったら皆が生きていけないと、家族に思い込ませた。
1929年2月14日のセントバレンタイン・デーの虐殺が世間を驚かした時、ムーニーと仲間のニードルズ・ジアノーラが真っ先に警察の取り調べを受けたのは当然だった。
何しろ主犯と目されたジャック・マクガーン(カポネの手下)の運転手をしていたのだから。
ムーニーは家に帰ると、取り調べの疲れも見せず楽しそうに新聞を広げた。
虐殺現場の物凄い写真がトップに出ていたが、弟のチャックにいたずらっぽくウインクしてから父に言った。
「なあ親父よ、こんな事をやるなんてカポネもマクガーンもすごい子分を持っているもんだな」
父はただ首を振り、黙ってワインを飲んでいた。
この虐殺の結果、シカゴでカポネの地位は揺るぎないものになり、ムーニーも意気軒高となった。
だが3月に再び逮捕され、強盗事件があまりに頻繁なのでもみ消せず、実刑判決を受けてジョリエット州立刑務所に入ることになった。
(2018年9月30日に作成)