(『ダブルクロス アメリカを葬った男』チャック・ジアンカーナ著から抜粋)
ムーニー(サム・ジアンカーナ)は、1942年の年末に仮釈放で出所してきた。
ムーニーの入所中に(弟の)チャックは20歳になっており、ムーニーは対等の男として扱いだした。
出所して数週間後に、ムーニーは言った。
「俺はクロ(黒人)は馬鹿ばかりだと思ってた。間抜けでぐうたらだと。
だが、サウスサイド(シカゴ南地区の黒人街)には、どえらく稼いでいるクロがいる。」
「どうやって」チャックが口を挟んだ。
「ポリシー(数字を当てるバクチ)だ。」
「ポリシー? あんなもの、クロのしけた遊びじゃないのか?」
ムーニーはニヤリとした。
「俺だってそう思ってた。
だがニューヨークの(ボスの)ダッチ・シュルツは、1930年代から知っていて、ポリシーで日に100万ドルも稼いでやがった。」
ムーニーがさらに説明する。
「ポリシーは5セントでやれる。5セントくらい自由にならん奴はいない。
まして南地区の奴らは一人残らずやる。
連中は5セントで夢が買えるわけだ。
量なんだ、チャック。決まったパーセントは店のあがりだ。
刑務所でエディ・ジョーンズと知り合った。ポリシー屋のクロだ。
ジョーンズによると、ポリシーが生まれたのはニューオーリンズで、まだ奴隷制の時代だった。
クロと共に北に拡まり、シカゴに達した。」
「だが、クロはシロを仲間には入れない。だから関係ねえだろう?」チャックが訊いた。
「そこだ、エディ・ジョーンズと話はついている。
エディが出所すればパートナーになる。
それまでは奴の弟のジョージと組む。
ボロい商売だ。」
ムーニーによると、エディとジョージのジョーンズ兄弟はポリシーのチェーンを築いて、千人もの手下を働かせて1日に5万ドル以上も得ているという。
「ジョーンズは稼いだ金を合法ビジネスに、商店やホテルやアパートにつぎ込んでいる。
さらに奴はメキシコに土地とマンションを有している。」
「で、これからどうなる?」チャックは尋ねた。
「次はポリシーだ、チャック。
明朝、ジョージ・ジョーンズに会い、夜には(俺たちのボスの)ポール・リッカとジェイク・グーズィクと会合だ。」
この年、シカゴ・シンジケートのボス達は、『ブラウン=ビオフ事件』で連邦当局から告発されるのを免れようと躍起になっていた。
3年前に、当局はシカゴ・シンジケートの組合員ウィリー・ビオフが率いるIATSE&MPO(舞台と映画関係者の組合)を調べ上げた。
そしてシンジケート幹部に至る数々の違法行為を見つけた。
最終的にビオフとジョージ・ブラウンの2人が起訴され、20世紀フォックスのプロデューサーであるジョー・シェンクも脱税で投獄された。
ジョー・シェンクは、シンジケートに代わってフランクリン・ルーズベルト大統領候補へ選挙資金を渡し、シカゴ・シンジケートから4000万ドルをもらっていた。
ムーニーの話では、大統領に当選したルーズベルトは暗黒街の貢献に報いて、労働ギャングでアマルガメイテッド・クローズィング・ワーカーズ会長のシドニー・ヒルマンを労働顧問にした。
さらにムーニーが「身内」と呼ぶハリー・トルーマンを、DNC議長にし、副大統領にもした。
ウィリー・ビオフは当局に供述し始めていて、シカゴ・シンジケートのボスであるポール・リッカは焦っていた。
だが奇妙なことに、ムーニーは出来事を楽しんでいた。
チャックは疑問を口にした。
「リッカがムショ送りになれば、シンジケートは目茶苦茶になるんじゃないのか?」
ムーニーは曰くありげにほくそ笑んだ。
「いや、事を治められる奴がいれば、そうはならない。
リッカ達は10年はくらう。その間に誰かがトップに立つ。」
ムーニーは猛烈な勢いで、ポリシーなどのギャンブル事業にのめり込んでいった。
ファット・レナードを副ボスに起用し、賭場を開設していった。
やがてシカゴ市内に200ヵ所、市外にも24ヵ所の賭場を保有するまでになった。
これらの賭場は、スタッフが5人ほどの小規模なものだ。
1ヵ所のあがりは月平均で2000ドルは下らない。
月末になるとムーニーの許に現金が運ばれてきた。
1943年3月に、チャックは賭場の見張りの仕事を始めた。
週75ドルの給料で、当時は大金だった。
この頃、ポール・リッカらに告発の噂が流れた。
リッカは配下のフランク・ネティに、「単独犯として自供して1人で罪をかぶれ」と命じた。
だがネティは自殺を図り、リッカ達は残らず起訴される羽目になった。
10年の刑を宣告されたリッカは、トニー・アカードを後継者に指名し、マレー・ハンフリーズとジェイク・グーズィクを補佐役とした。
ムーニーは最大の出世チャンスとばかりに、間髪入れず基盤固めに着手した。
(2018年10月10~11日に作成)