(『ダブルクロス アメリカを葬った男』チャック・ジアンカーナ著から抜粋)
1943年の春になると、対日戦争が本格化し、アメリカ国民は犠牲を求められた。
砂糖の消費は、一世帯あたり月に2ポンドに制限された。
ムーニーはここでも、盗んだ配給クーポンの売買という稼ぎの種を見つけた。
部下たちが、シカゴの政府倉庫から盗み出した厖大なクーポンをさばき、国家の苦難を足蹴にして大儲けした。
ニューヨークでも、ラッキー・ルチアーノやカルロ・ガンビーノが同じことをして、何百万ドルも稼いでいた。
しかしムーニーのやり口は、上司のマレー・ハンフリーズとジェイク・グーズィクには苦々しく映った。
そして「ムーニーは狂気じみた冷血漢だ」との噂がとんだ。
1943年4月に入ると、ムーニーは上司から権力を奪う決意を固めた。
そして、友人であり師でもあるジェイク・グーズィクを誘拐したのである。
2日間ピストルを頭に突きつけられたグーズィクは、ムーニーを支持する道を選んだ。
『ブラウン=ビオフ事件』で動揺していたため、他の連中もおとなしく従った。
ムーニーはシカゴ・シンジケートの中心に出世し、仕事はかつてなく多忙となった。
グーズィクの子分でギリシャ人のガス・アレックス(政治フィクサー)や、アル・カポネがボスの時代からのスロットマシン王のエディ・ヴォーゲル、ノースサイドのロス・プリオ、カポネの補佐役だったエイブ・プリッカーやアート・グリーン、地元議員のジェイク・アーヴェイらと会合するようになった。
ムーニーは酒を飲むことは滅多にない。注文しても手を付けなかった。
チャックに何度となく言った。
「酒はお前を愚か者にする。
相手には飲ませ、何もかも吐き出させろ。」
シカゴ市内には大規模な賭場が5つあり、それぞれからのあがりは月平均で5万ドルを越えた。
それらの賭場には夜になるとボス連中が集まり、クラス会といった雰囲気だった。
ムーニーはそれに加わると、男たちの一挙手一投足をじっと観察し、些細な事にも目を光らせた。
いつも周りの人間を値踏みし、弱みを探っていた。
1944年初頭に、ムーニーは妻アンジェを伴ってハリウッドに出かけた。
「王様のような待遇よ」と、帰ってからアンジェは友人に自慢した。
「大物プロデューサーを従えてのスタジオ見学、ムーニーを親友のように扱うスターにも大勢会ったわ。」
アンジェには胸の躍る体験だったが、ムーニーにとってはハリウッドとの繋がりもビジネスだった。
(2018年10月11日に作成)