(『ダブルクロス アメリカを葬った男』チャック・ジアンカーナ著から抜粋)
1946年に、ムーニーはトニー・アカード(シカゴ・シンジケートのボス)の右腕に出世した。
この格上げは、ギャンブル事業の成功と勢力拡大がもたらしたものだ。
この年、ムーニーはニューヨークを頻繁に訪れた。
ニューヨーク・マフィアのボスであるフランク・コステロと、大きなビジネスをしていたからだ。
そもそもニューヨークは、ラッキー・ルチアーノがボスだった。
だが1936年に投獄され、2度にわたり仮釈放を申請したが却下された。
第二次大戦中に情報当局から求められて、ルチアーノはイタリアにいるマフィアのボスであるドン・ヴィジニーに、米軍のヨーロッパ上陸の支援を要請した。
だがこれも、釈放の材料にはならなかった。
ムーニーによれば、ルチアーノからの9万ドルのトーマス・デューイ(ルチアーノを投獄した張本人)への選挙支援は、マイヤー・ランスキーのフロリダ州タンパの将来の利権、バハマでのギャンブル事業の利益の供与とあいまって、デューイの好意を獲得し、ルチアーノの釈放につながった。
こうして1945年に、ルチアーノは国外退去を条件に釈放された。
トーマス・デューイは非難の的になったが、大統領候補に転じていた彼は、戦時中にルチアーノが国家に貢献したと主張して釈放を正当化した。
ルチアーノはイタリアに移住すると、ニューヨークでの後継者にフランク・コステロを据えた。
コステロは、兄エディの影響でマフィアになり、禁酒法時代にルチアーノおよびランスキーと親友になった。
そして年下の2人と協力し、シンジケートの全国的な組織作りをした。
ムーニーとコステロが蜜月関係となったのは1943年で、ムーニーがギャンブル事業に乗り出してからである。
「一杯飲る間もなく、俺たちは固く結ばれた」ムーニーはそう言い、こう続けた。
「好き嫌いの感覚がまるで同じだ。
ともかく、あれほど頭のキレる男に会ったのは初めてだ。
物事の処理の仕方には舌を巻く。
彼と同じ力を手にしたいと思い、一挙手一投足まで観察した。
俺がもし誰かになりたいとすれば、コステロ以外にない。」
ムーニーとコステロは、1945年には共同事業も始めた。
コステロは、中西部に宝石の密売基地をほしがっていた。
間もなくムーニーは、中西部で強盗して奪った宝石をコステロ配下の故買屋ジョージ・アンガーの所に運び、コステロが密輸した宝石と一緒に西部に流し始めた。
この密売は莫大なカネをもたらし、ムーニーはニューヨークに同盟者を得たことでシカゴにおける立場を強化した。
(2018年10月12日に作成)