黒人ギャングと共同事業を進めるが、
軌道に乗ったところで黒人ギャングを追い出す

(『ダブルクロス アメリカを葬った男』チャック・ジアンカーナ著から抜粋)

1946年の初め、黒人ポリシー王のエディ・ジョーンズはまだ獄中だったが、弟のジョージに命じてムーニーとの共同事業を進めていた。

ムーニーは、ポリシー事業の他にも、ジュークボックス、ピンボール機、自動販売機に進出した。

フォーティツー時代からの配下であるチャキー・イングリッシュを呼び、指揮をとらせた。

さらに所得操作(脱税)も始めたが、国税庁に対する所得操作は最高に旨味があった。

ギャンブル用に改造した違法ピンボール機は、設置する酒場やレストランと利益を折半した。

機械を置きたがらぬオーナーに対しては、破壊や放火をした。

シンジケートは店の監視を続け、経営に苦しむオーナーには高利の金を貸し付け、うまくいけば店ごと乗っ取った。

ジュークボックスを独占したおかげで、シンジケートは音楽業界にも絶大な影響力を持つに至った。

どんな新曲も、聞かれる機会がなければヒットしない。
シンジケートは贔屓歌手の曲で街を溢れさせることができた。

1台あたりの週の利益は平均して10ドル、またたく間に金が唸り始めた。

ムーニーとジョーンズ兄弟は収益を折半し、国税局には最低限の申告しかしなかった。

国中のハイウェイ脇から手下が盗んできた煙草も、ムーニーの自販機に納められ、売れた分は丸ごと利益になった。

「こんなの氷山の一角だ」ムーニーは仄めかすように言った。
「今に世界が相手だ。煙草をフィリピンに持ち込む手配をしてるところだ」

その手配をしている男は、シカゴ出身の元ボクサー、ハリー・ストーンヒルだった。

ハリーの人脈は、フィリピン上院議員フェルディナンド・マルコスから、副領事エドワード・ランズデールやダグラス・マッカーサー元帥にまで及んでいた。

そしてシカゴ・シンジケートは、ニューヨークに先んじてアジアに進出を果たすことになる。

ムーニーは、ジョーンズの指南のもとで、合法ビジネスにも投資を始めた。

リカー・ストア「R&S」を6万5千ドルで買った。

さらに黒人区の古ビルを買い、そこを「ブギー・ウギー」というクラブにして、コットン・クラブのシカゴ版にするという。

チャックはブギー・ウギーのマネージャーに据えられ、デザイン・改装を担当した。

完成すると黒人ギャングの溜まり場になり、チャックは各地から人気の黒人奏者やエンターテイナーを雇い入れた。

その頃に出獄したエディ・ジョーンズは、補佐役のテディ・ルーを連れて足繁くブギー・ウギーに顔を出し始めた。

1946年4月下旬のある晩、ムーニーが視察に来た。
そしてチャックの所にきて言った。

「数週のうちに連中を根こそぎにする。
チャック、お前は今まで通りやれ。」

46年5月のある夜、エディ・ジョーンズの誘拐作戦が決行された。

ムーニー、ファット・レナード、ニードルズ・ジアノーラ、フィフィ・ブッチェリ、ビンセント・イオリは、ポリシー王をムーニーの自宅地下室に押し込めた。

3年前のジェイク・グーズィクと同様に、ジョーンズは2つに1つを選ばされた。
言う事を聞くか死か。

1週間後に解放された時、エディ・ジョーンズは25万ドルの身代金の支払いと、保有する全ての引き渡しに同意した。

2週間後、ジョーンズ一家はメキシコ行きの列車に乗り込み、2度とシカゴに戻らなかった。

黒人の新聞はムーニーを「裏切り者」と指弾し、テディ・ルーも「死ぬまで闘う」とぶち上げた。

その夏、ムーニーは政界やサツのコネを利用して、ルーを廃業に追い込もうとした。

さらに黒人のポリシー屋に対し、脅迫・爆弾・殺人を使って猛攻撃をかけ始めた。

8月にはルーの賭場を除いて、一切合財がムーニーの手に落ちた。

乗っ取りが完了すると、ムーニーはマンノ兄弟とサム・パーディに運営を任せた。

この6年後、マンノ兄弟とパーディはポリシーに関する200万ドルの脱税容疑で有罪になり、刑務所送りになる。

(2018年10月12日に作成)


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