シカゴ・シンジケートは各地に賭場を開いていく

(『ダブルクロス アメリカを葬った男』チャック・ジアンカーナ著から抜粋)

ムーニーによると、彼が地元の賭場を押さえにかかった頃、トニー・アカード(シカゴ・シンジケートのボス)はジェイク・グーズィクとマレー・ハンフリーズに命じて、全国規模のギャンブル網作りを進めていた。

シカゴ・シンジケートは、アイオワ、カンザス、インディアナ、ミシガン、テキサスにギャンブル事業を拡大した。

さらに国内のあらゆるスポーツの勝敗データを賭元に流していた、通信社コンティネンタル・プレスの乗っ取りの仕上げにかかっていた。

コンティネンタル社の前身はネイション・ワイドで、モー・アネンバーグが所有していたが、この出版界の大物は脱税で投獄された。

アネンバーグが会社を畳むと、長年そこで働いていたジム・レイガンがコンティネンタル社を設立した。

シカゴ・シンジケートは、レイガンのもつサービスはギャンブル事業拡大の突破口になると考え、オファーを示した。
だがレイガンは拒否した。

ジム・レイガンを業界から締め出すため、シカゴ・シンジケートは自前の通信社トランス・アメリカを作った。
そしてレイガンの客を脅迫し、コンティネンタルから乗り換えさせた。

ムーニーは言う。

「それでもレイガンは業界の要だった。

やむを得ず、デイヴ・ヤラス、レニー・パトリック、ウィリー・ブロックに処理に当たらせた。
ガス・アレックスとストロンギー・フェラーノにも手伝わせた。

これだけの兵隊をもってしても、最初は失敗に終わった。
銃で襲ったが、奴は病院に逃げ込みやがった。

ヤラス達はとうとう、病院内で密かに水銀入りのカクテルを仕掛けた。」

こうしてレイガンは奇妙な突然死をした。

ムーニーは言った。

「カリフォルニアのジャック・ドラグナには協力の見返りに5万ドル、ニューオーリンズのカルロス・マルセロには権益を譲ってやる。

テキサス進出への地ならしをしてくれた礼だ。」

1946年の年末に、ムーニーはチャックに耳打ちした。

「ポール・リッカとその一党が、近々出獄するらしい」

ムーニーは、シカゴ・シンジケートのボスのリッカらが服役中の3年間に、シカゴでトップの地位を確立していた。

「ポール・リッカは、俺なら皆に金儲けさせられるのが分かってる。
大事なのはそこだ。

俺はギャンブル事業で能力を見せつけた。いずれボスになる。」

ムーニーによれば、ポール・リッカの早期出獄はマレー・ハンフリーズの手柄だった。

ハンフリーズはワシントンに足を運び、検事総長のトム・クラークに力添えを頼んでいた。

「ポール・リッカはクラークに、釈放に力を貸せば最高裁判事の椅子まで約束していた。

俺たちは大統領も押さえてる。俺たちのホワイトハウスだ。」

ムーニーの言葉通り、リッカは1947年早々に非難が渦巻く中で釈放された。

そしてトム・クラークは、トルーマン大統領によって最高裁判事に任ぜられた。

一方トルーマンは、来るべき48年の大統領選でのシンジケートの支援を得た。

ムーニーは、下院議員のジミー・アダクティと共に「ウィンディ・シティ」という名の会社を興した。

この会社は、ソフトボールのリーグを設立するという触れ込みだったが、ムーニーによると賭場の隠れ蓑の1つだった。

(2018年10月14~15日に作成)


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