(『ダブルクロス アメリカを葬った男』チャック・ジアンカーナ著から抜粋)
1950年5月にエステス・キーフォーヴァー上院議員が、組織犯罪の調査をする委員会を結成した。
秋になると、暗黒街はどこでもキーフォーヴァーによる公聴会の話題で持ちきりだった。
この時期に、シカゴの暗黒街では(イタリア系犯罪組織に対して)シンジケートの呼び名が消え、「アウトフィット(組織)」の名に変わった。
ムーニーによれば、各地の犯罪組織にそれぞれ名を与えるのは、早くからマイヤー・ランスキーが提言していた。士気高揚が狙いだ。
全国組織は「コンビネーション(連合)」ないしは「コミッション(委員会)」と呼ばれた。
ニューヨークの犯罪組織は「モブ(ギャング)」で、シカゴは「アウトフィット」。
ニューオーリンズでは「コンバイン(結社)」か「マフィア」に人気があった。
こう名称が違っては、キーフォーヴァーが混乱したのも無理はなかった。
だがニューヨークのボスの1人であるフランク・コステロは、調査委員会から「マフィアの首相」とレッテルを貼られ、政財界との繋がりも暴かれて苦境となった。
同じくニューヨークのボスの1人であるヴィト・ジェノヴェーゼは、コステロを倒すチャンスだと考えた。
コステロはキーフォーヴァー委員会で証言して以来、ジェノヴェーゼに狙われた。
しかしコステロに近づくには、まずコステロの盟友ウィリー・モレッティを排除しなければならない。
モレッティはニュージャージー州のロンギー・ズウィルマンと組んでいて、フランク・シナトラのゴッドファーザーだと噂されていた。
1939年にトミー・ドーシー楽団から独立したがっていたシナトラを救ったという。
(トミー・ドーシー楽団はジャズの名門バンドの1つで、シナトラはそこの専属歌手だった。
シナトラは独立しようとして、マフィアに仲介を頼んだのである。)
最近モレッティは梅毒が進み、組織の秘密を漏らしたりするようになっていた。
ジェノヴェーゼはそれを口実に、「あいつを生かしといては為にならない」と主張した。
コステロは盟友を助けようとし、カリフォルニアに匿ったりした。
1951年初めに、ウィリー・モレッティが記者たちのインタビューに応じ始めると、ヴィト・ジェノヴェーゼは再びモレッティ抹殺を叫んだ。
これを見たフランク・コステロは、ニューヨークの殺し屋組織の頭目であるアルバート・アナスタシアに助けを求めた。
コステロは交換条件として、「お前のボスのヴィンセント・マンガーノを消す手助けをし、マンガーノの跡目にしてやる」とアナスタシアに約束した。
1951年4月にマンガーノは行方不明となり、殺されたと誰もが思った。
アナスタシアはボスに納まり、コステロを支援した。
ところが次は、ジェノヴェーゼがアナスタシアに話を持ちかけた。
「俺と組もう」と。
アナスタシアは10月4日に、モレッティを撃ち殺した。
(2018年10月23日に作成)