(『日本の黒い霧』松本清張著から抜粋)
私は、松川事件の全被告の無罪を信じている。
事件後、10年以上も経た今となっては、様々な証拠が消滅している。
しかし残された資料・証拠から、犯人の幻影を類推するのは不可能ではないと思う。
なお、資料については検察が故意に削ってしまったものがあると見ている。
まず1949年の夏に起こったこの事件を、広津和郎の文章を引用して述べよう。
「福島駅を発車した412号・旅客列車が、8月17日のAM3時9分に金谷川駅と松川駅の間のカーヴにさしかかった。
そこで先頭の機関車が脱線・転覆し、続く数車輛も脱線して、2名が死亡した。
現場ではレールのツギメ板が外され、枕木の犬釘が抜かれ、長さ25mもある1本のレールは線路から13mも離れた所に運ばれて地面に横たわっていた。
バールが1本、付近の稲田から見つかった。
続いて全長24cmにすぎない自在スパナも1個発見されたが、不思議なことに発見者はついに解らなかった。
下山事件、三鷹事件に続いて、国鉄に戦慄すべき椿事が起こったので、事件の裏に恐ろしい計画があるのではという不安を国民は抱いた。
その不安に、翌18日に吉田内閣の増田甲子七・官房長官が発表した談話は、一層油を注いだ。
「今回の事件は、三鷹事件をはじめとする各種事件と思想的底流においては同じである」
後になって考えてみれば、事件の翌日で何者が犯人か見当さえついていない中で、いかにも軽率で乱暴な談話である。
しかし当時においては、筆者も迂闊にも談話を信じ、思想的犯罪だと思い込まされたのであった。
国鉄の労組や共産党は何と浅はかな事をするのだと、当時眉をひそめた国民は少なくなかったと思う。
ところが事件から24日後の9月10日に逮捕されたのは、労組幹部でも共産党員でもない、19歳の赤間勝美であった。
それから1週間ほどして、菊池武という18歳の少年も逮捕されたが、こちらも労組幹部でも共産党員でもなく、釈放された。
赤間勝美は自白調書を取られて、それによって次々と被疑者が逮捕されていった。
その多くは共産党員と労組幹部であった。
検察側の主張は、被疑者たちが8月13日と15日に国鉄労組・福島支部事務所に集まって、列車転覆の共同謀議をし、それに従って東芝工場内でも謀議された。
その結果、国鉄側から本田昇、高橋晴雄、赤間勝美の3人が、東芝側から佐藤一、浜崎二雄が出て行って、線路破壊をした。
そして線路破壊に使ったスパナとバールは、東芝側の小林源三郎、菊池武、大内昭三が松川駅の線路班倉庫から盗み出した、である。
被告たちと弁護人は、上の犯行は取調べ陣のでっち上げだとして控訴を続けたが、第1審では全員有罪、第2審では3名無罪で17名が有罪となった。
最高裁では1959年8月10日に、破棄差し戻し7名、上告棄却5名の、7対5の判決で、仙台高裁に差し戻された。」
さて、松川事件で現場に最初に到着した警官は、国警福島県本部・捜査課次席警視の玉川正であった。
彼の証言によると、当日の午前5時ごろに自宅に居たところ、直接に国鉄・福島管理部から事件の通報を受け、部下を招集して県本部に直行。
30~40分のちに、7~8名の部下とコマンドカーで現場に赴いた。
この時、辺りはまだ暗くて、事故列車の乗客は辺りをうろうろしていた。
玉川正は、次のように語っている。
「だんだん明るくなって来たので、犯人が使った道具が松川線路班と金谷川線路班で盗まれていないか、各2名の刑事を現場から送って調査させました。
両線路班に刑事を派遣した時刻は、6時半か7時前後です。
そのうち松川線路班に行った刑事が戻ってきて、バールが盗まれていると云っていると報告した。
事件現場付近の田んぼから、自在スパナとバールが各1挺づつ見つかったので、松川線路班に行きました。
バールとスパナを見せたところ、16~17歳の臨時人夫が「これはここの物だ。昨日に俺が修理に使った」と申しました。
すると上の者が「よけいな事を言うな」とその少年を叱った。
倉庫係も「これはウチのだ」と証言した。
こうやってバールとスパナが松川線路班から盗まれたものと確信したのです。」
玉川正の証言で私が気になったのは、次の3点である。
①
玉川正は、一緒に行った7~8名の部下の名前を1人も憶えていないこと
②
事件の通知が警察からではなく、国鉄管理部から直接に彼の自宅に通報されたこと
③
現場に着くとすぐに犯行に使った道具を調べ、その出所を追及したこと
岡林弁護人は云っている。
「玉川正・警視は、捜査の中心人物で、赤間勝美の自白も担当した。
本件の功労者であり、表彰され警察署長に栄進もしている。
彼の証言を検討すると、事件の日、遅くとも午前4時頃には現場に居たと分かる。
まさか3時10分頃の転覆事故の前からでもあるまいが、それを否定する資料もない。
重大な疑惑の種になっている。」
実は、松川事件の当夜、現場付近では警察の非常警戒がなされていた。
8月16日(松川事件の前日)の午前2~3時頃に、大槻呉服店の破蔵事件があった。
このために警察は非常線を張っていたのだ。
非常線に包囲された中で、列車転覆事件が発生したのは奇妙な事である。
警察は事件から24日目の9月10日に、赤間勝美(19)を捕まえた。
勝美は永井川線路班で働いていたが、49年の第一次・国鉄整理でクビにされ、その後はパン屋に就職していた。彼は町のチンピラだった。
警察は勝美を脅して自白を強要したが、取り調べの主役となったのは玉川正である。
勝美は遂に屈服し、自白調書が作られた。
その自白によると、勝美、本田昇、高橋晴雄の3人は、16日の夜12時頃に待ち合わせて、永井川線路班の南側踏切を通って線路伝いに破壊現場に行った。
その晩は虚空蔵菩薩の祭りで、踏切の傍らにテントをかけて、4人の線路工夫が警戒に出ていた。
このテントの事は自白では出てこず、後になって気付いた検事は慌ててその自白をさせた。
だが、警戒に出ていた工夫たちは、「勝美らが通るのを見かけなかった」と証言した。
この点も法廷で論争になっている。
また勝美らが通ったとされる線路脇には、遊間調査(線路と線路のつなぎ目の伸縮の調査)のテントが出ていたが、その工夫たちも「勝美らは通っていない」と証言した。
勝美は「自白は官憲によって強要された虚構である」と1審以来、主張し続けている。
加藤謙三という当時19歳の少年は、転覆した列車の前の、159貨物列車が運転休止になったからその間に線路を破壊するようにと、8月16日の夜に連絡したとして、第2審で10年の刑を云い渡された。
この運転休止は、線路破壊の重要な条件になっている。
というのも、勝美の自白や現場検証により、破壊班が作業を開始したのは午前2時4分ごろで、破壊に要した時間は23~27分とされているからだ。
もしその途中で運行表の通りに159貨物列車が2時12分頃に通過したなら、破壊作業は全く不可能になる。
だから作業班は、運転休止をあらかじめ知っていなければならないのだ。
しかし謙三は、運行表を知る立場になかった。
それなのに検察は、謙三が16日の午前11時58分から組合の大会に参加し、そこで組合幹部に運休を連絡したと主張している。
ちなみにこの159貨物列車は、14日から続けて運休中で、その前からもたびたび運休があったという。
また破壊班の1人とされた本田昇は、16日の夜は酒に酔い、国鉄労組支部の宿直室に寝たのだが、それを証言する者があっても判決には取り上げられなかった。
高橋晴雄も、身体障害者の彼が8里近くを真夜中に歩いて現場で作業するのは、不可能である。
だが検察側は、可能性はあるという。
赤間勝美の自白から続々と検挙されていったのだが、玉川正は「他の者はみんな調べがついている。本田はお前がやったと云っているぞ。」と云って、勝美を憤激させ、勝美の口から本田の名前を云わせている。
ところが、この時はまだ本田は検挙されていなかった。(つまり嘘をついて自白させた)
また、検挙された者が全部起訴されている事にも注目したい。
勝美の自白の形をとっているが、警察は最初から検挙すべき者を決めていたとの想像がなされないでもない。
現場で見つかったバールとスパナは、だんだん調べてみると、松川線路班のものか怪しくなってきた。
判決文でも「松川線路班のものでないとは云えない」という、曖昧な結論になっている。
証人は「バールはゲージタイ(線路の幅を止めておく鉄棒)で作ったものである」と述べている。
ところがこのゲージタイは国鉄で使用されていないサイズである。
バールの先端にはYという英字が刻み付けてあり、爪の先にもXという文字が刻み付けてある。
そしてバールの爪先の近くに草色と朱色の塗料が少し付いていた。
国鉄の証人は、「目印に色ペンキを使う事はない」と証言している。
岡林弁護士によると、その草色は「暗い草色」だった。
スパナのほうは、いわゆる自在スパナで、国鉄が使用しているものより遥かに小さい。
24糎(センチ)しかないスパナなので、「ボルトやナットの取り外しは不可能に近い」と各鑑定人は述べている。
同じようなスパナを使って実験したが、忽ち亀裂を生じて役に立たなかった。
ところが判決では「スパナを犯行に使用したと認めるのは不合理でない」と結論している。
今度は、継ぎ目板の問題である。
赤間勝美の自白では、「継ぎ目板の1ヵ所を外して転覆作業を行った」となっている。
だから検察側は継ぎ目板は1ヵ所だけ外されたと主張した。
ところが1ヵ所の取り外しでは列車は転覆しないと判り、検察は事件から1年半近く経った頃に「2ヵ所の取り外しと認定するに至った」と変節した。
検察は第2審になって、新たに2枚の継ぎ目板を提出してきた。(継ぎ目板は1ヵ所に2枚である)
これは新たな1ヵ所を立証しようとしたもので、「板は今まで倉庫にしまってあったのを、うっかり見落としていた」と語った。
だがこの新しい板は、本物か怪しい。というのは、板が曲がっているのである。
現場の模様から見ると、板は直線でなければならない。
こう考えると、本物の板は行方不明になっているのである。
松川事件の背景には、当時の政治情勢がある。
1949年1月23日の国政選挙では、日本共産党が一挙に35議席を取り、大都市では殆ど第1位となった。
2月16日に第3次・吉田内閣が発足したが、26日には「行政機構の刷新および人員整理に関する件」が決定して、これによる失業者は170万人と推定された。
5月には「定員法」が成立し、国鉄の大量首切りが発表され、東芝も4580人の第一次首切りを発表した。
また当時は、中国共産党軍が北京へ入城し、中国制覇が目の前にあった。
だから吉田内閣は、アメリカの意をうけて露骨に反共の政策を採った。
GHQは、いわゆる「経済9原則」を日本政府に強要した。
これは大企業の人員整理となって現われ、国鉄と全逓では定員法によって首切りが行われた。
抗議する労働者に対しては、武装警察による弾圧が行われつつ、日本政府は団体等規制令や労働法の改正なとで対抗した。
この騒ぎの中で、下山事件が起こり、三鷹事件と松川事件も起こった。
では、松川事件の起こった福島県の労働運動はどうであったか。
青地晨はこう説明している。(中央公論 昭和34年9月「松川事件特集号」から)
「まず山間部の猪苗代湖には東京に最も近い大発電所があり、ここの電産猪苗代湖分会は共産党の勢力が強かった。
沿岸地方には常磐炭田の炭鉱労組、県中央部には国鉄労組の福島支部があり、いずれも共産党の組織率が高かった。
共産党・県委員会は、これらの組合を中心に、ドッジライン反対、吉田政権打倒の活動を展開していた。
一方、県当局は東北6県の警察力を県下に集中し、他県から動員した警官で町中が埋まる観を呈した。
こうした緊迫状況の中、49年6月30日に平事件と福島県会赤旗事件が起きた。
平事件は、共産党の壁新聞の掲示板を撤去した事に怒ったデモ隊400名が平警察署に押しかけ、署を占拠して留置中のデモ隊員をブタ箱から救出し、逆に警官をブタ箱に入れたものである。
同じ日に、福島県会に押しかけたデモ隊が傍聴席で赤旗を振り、肝をつぶした議員たちが議場から逃げ出したのが、県会赤旗事件である。
この一連の事件は、『日共の革命演習』というレッテルを貼られ、騒擾罪で起訴された。」
松川事件の前に、酷似した事件が起きている。
「庭坂事件」と「予讃線事件」である。
庭坂事件は、1948年4月27日の午前0時4分に奥羽線の列車が脱線して、死者3名を出した。
現場は下り傾斜でカーヴとなっており、犬釘と非常継ぎ目板が抜き取られていた。
犯人は挙がらずじまいだった。
予讃線事件は、49年5月9日の午前4時23分頃に、四国の予讃線で列車がカーヴに差しかかった所で転覆し、3名が即死した。
現場では継ぎ目板3枚、ボルト8本、犬釘7本が外されていた。
押収されたバールとスパナにはローマ字の刻印があり、国鉄で使うものではなかった。
この時も犯人は判っていない。
読者は松川事件とひどく似ているのに驚かれるであろう。
いずれも現場は線路がカーヴしている。なお、下山事件も現場はカーヴであった。
カーヴは線路の破壊活動に必須の条件らしい。
私は下山事件について、「下山定則・国鉄総裁の自殺ではなく、他殺であり、殺された理由はGHQの国鉄大量リストラに抵抗したからだ」と書いた。
GHQにとって鉄道は輸送面で重要であり、意のままに動く態勢にしておきたかった。
そのためには、従業員に共産分子が居てはならなかった。
いざという時にストを起こされては、輸送が狂い作戦に支障をきたす。
下山事件では犯人を共産分子と宣伝することで、国鉄の首切りへの反対闘争を潰しつつ、共産党の評判を落とした。
松川事件の時も、アメリカ筋がしきりと顔を出している。
当時、福島市の外れの教育会館に、アメリカ軍政部が陣取っていた。
49年7月4日に国鉄の第一次首切りが発表されると、郡山機関区の組合は辞令を受け取らずピケを張った。
すると軍政部の司令官であるクラーク中佐が郡山に乗り込み、指揮する隊の銃口をピケ隊に構えさせ、首切りを強行した。
当時の警察と県庁は、常に状況を軍政部と福島CICに報告していた。
CICは福島でも活動していて、松川事件の時は福島CIC隊長のアンドリュー少佐が「共産党の犯行」だと繰り返し強調した。
松川事件には東京のCIC本部も異常な関心を持っていたと、共同通信は報じている。
アメリカ政府のCIAが日本で活動を始めたのは1949年だが、CIAには破壊活動班があり、鉄道の破壊も行っていた。
松川事件では、159貨物列車の運休が必須の条件だった。
赤間勝美の自白によると、彼らが現場に着いて作業をしたのは午前2時10分~37分頃である。
ところが159貨物列車は運休しなければ、現場を2時12分に通過したのである。
だから、159列車の運休を発令した者を追及すべきだ。
ところで当時の鉄道運行は、全て米軍のRTO(輸送司令部)が実権を握っていた。
RTOを掌握している親玉は、CTS(民間輸送部)の鉄道担当官シャグノンだった。
シャグノンがその気になれば、貨物列車1本の運休くらいは意のままである。
また、松川事件の第1審では、米軍の日系二世と思われる者が裁判長席の後ろに控えていた。
これは弁護人の抗議で退去となったが、米軍の関与が分かる。
第2審でも、MPが裁判所を遠巻きにして要所に立っていた事があった。
永井川信号所のテントの番人たちは、「人が通るのを見なかった」とはっきり証言している。
そうならば、破壊工作班が異なった道を選んだ可能性が高い。
異なった道とは、赤間勝美らが往復したとされる線路沿いの道から少し東にある、陸羽街道のことである。
私は、破壊工作班は陸羽街道を堂々と通ったと推定する。
おそらく米軍のトラックかジープに乗って行ったと思う。
この実行部隊は、問題の159列車の運休措置が取られた後に、福島CIC本部を出発して、陸羽街道を使って現場に行った。
各班には無線で連絡がされていたはずだ。使われた工具は、現場に残されたチャチなものでは無論あるまい。
当夜は警察の非常警戒が行われていた事は既に書いたが、破壊工作班と警察には了解がなされていたと思う。
というのは、警戒に出たのが捜査係ではなく、警備係が多かったからである。
ここで、玉川正・警視の事件時の行動の不審さも思い出していただきたい。
米軍と警察の繋がりを裏付けるものとして、「諏訪メモ」を取り上げたい。
このメモは、東芝松川工場の事務課長補佐である諏訪新一郎の書いたものだが、8頁を見ると東芝松川工場が国警や地警、米軍の民政部、労政課、CICと連絡を取っていたのが分かる。
松川事件では、目撃者の悲劇的な話がある。
目撃者の渋川村の佐藤金作は、現場で2人ほどの大男が枕木からレールを外しているのを見た。
金作は検査か修理をやっていると思ったが、1人の日本人が金作の後を尾けて来て、我が家の戸を開けようとした所で日本語で呼び止めた。
この男は金作に向かって「見たことを口外してはならない、口外したらアメリカの軍事裁判にかけられる」と云った。
翌朝になり金作は転覆事件を知り不安になったが、5日後に1人の男がやって来て、「福島市CICの事務所に明日、出頭して下さい」と告げた。
彼は恐怖が増して、横浜にいる弟の許に身を寄せた。
しかし50年1月12日に行方不明となり、40日あまり後に死体となって入江に浮いているのが見つかった。
家族が死体を確かめに行くと、すでに火葬にされていた。
アメリカは日本占領の直後に、日本のゲージに合わせて製作しておいたディーゼル電気機関車を十数輛も陸揚げした事実がある。
これを日本の各地で使用したが、その修理は品川機関庫で行い、大修理は国鉄の大宮工場と浜松工場でやっていた。
占領が終わると一部は国鉄に引き継がれ、DD12型式と名付けて使用された。
この米軍の機関車の修理用に、大量の部品と工具が日本に持ち込まれた。
松川事件で見つかった暗い草色のペンキの付いたバールは、米軍のものと推断する。
私は、破壊工作班の一部は仙台から来たと疑っている。
仙台には小型の米軍野戦工廠があった。ここは工具には事を欠かない。
ここなら草色のペンキが付くのも不自然ではない。
次は、消えた2枚の継ぎ目板の問題である。
これを持っていったのは犯人以外には考えられない。なぜ持っていったのだろうか。
ここで思い出すのは、下山事件である。
下山・国鉄総裁の遺体からは、眼鏡、ネクタイ、ライターが失われていた。
私は、犯人が継ぎ目板を「戦利品」として持ち去ったと考えたい。
戦場において、兵士はしばしば敗者の持物を奪う。
松川事件では、面白半分に2枚の継ぎ目板を鹵獲品として持ち去ったのだと思う。
転覆現場では、1本のレールが13mも移動されていた。
これも、大男たちが面白半分に運んだとも考えられる。
犯人たちは破壊工作の証拠を何か残さねばならぬと気付き、バールとスパナを残したのだろう。
松川事件での警察の手際のよいイモ蔓式の逮捕を見ると、東芝工場や国鉄にスパイが入っていた感じが強い。
共産党の県会議員だったAは、福島地区の共産党幹部だったが、後に特審局と緊密な連絡をとっていた事が暴露されて除名処分となった。
この事実は、スパイ潜入説の傍証となると思う。
松川事件の前後には、怪しい動きがあった。
松川駅から200mの所に「松楽座」という芝居小屋があるが、事件当夜にここに旅廻りのレビュー団がやって来た。
不思議なことに、レビュー団はその晩だけ興行し、翌日にはどこかへ消えていた。
この興行の主は、戦前に満州や中国を渡り歩き、戦後は米軍とも関係を持った怪人物と伝わっている。
松川事件の犯人は、日本の旧特務機関、右翼筋という説は、当時から根強く信じられている。
もし彼らが関わっていたなら、米軍の下請けで使われたと想像できる。
(2019年9月3、10、11日に作成)