松川事件③
中島辰次郎の証言

(『何も知らなかった日本人』畠山清行著から抜粋)

中島辰次郎は、10代の時に中国大陸に渡って、日本陸軍のスパイ養成機関『ハルビン訓練所』に入った。

卒業すると、満蒙(満州と蒙古)方面の日本陸軍の諜報に従事した。

辰次郎は、第二次大戦の終結と共に北京に引き揚げたが、当時に所属していた陸軍参謀二部の『日高機関』の長である、日高冨明・大佐と共に、中国の国民党政府の諜報機関『国際問題研究所』に雇われた。

当時の北京は、米英ソ仏など連合国たちの戦後処理の思惑が錯綜し、同研究所の所員たちは裏では各国に情報を流していた。

日高冨明と中島辰次郎は、アメリカの諜報機関であるOSSと結び、情報を流した。

その後、中国共産党が国民党に戦争で勝利し、北京にも共産党軍が迫った。

するとOSSは、共産党のトップである毛沢東の暗殺計画を立てた。

この暗殺作戦は、かつて筆者が「毛沢東暗殺事件」として週刊誌に書いている。

作戦に参加したメンバーには、日高機関員の山口隆一と中島辰次郎、カトリック教会のイタリア人司教のタルシチオ・マルチニ、武器仲買商人のアントニオ・リーバー、フランス人のアンリー・ベッチらであった。

作戦の内容は、共産党軍の北京入城を待ち、祝典に出た毛沢東を狙って105mm迫撃砲を撃ち込むものだった。

中島辰次郎は、決行前に家族を日本に送ることにして、家族と台湾にまず移動した。

すると情勢の変化で北京に戻れなくなり、その間に暗殺計画が発覚して、山口隆一とアントニオ・リーバーは死刑になり、計画は終わった。

辰次郎が日本に帰ってみると、先に帰っていた日高冨明は在日米軍のキャノン機関の傘下に身を投じており、日高機関はそっくりそのままキャノン機関の一部となっていた。

キャノン機関には、かつて辰次郎が上海で世話になった、村井機関の長だった韓道峰(日本名は村井恵)も居た。

いつしか辰次郎は、日高冨明とは疎遠になり、韓道峰と深く結びついた。

そしてキャノン機関の解散後は、道峰が韓国の李承晩政権と結んで『景武台機関』をつくると、副機関長となった。

筆者は辰次郎と知り合い、十数巻に及ぶ録音インタビューに応じてもらった。

話を戻すが、中島辰次郎が台湾からの引き揚げ船で日本の佐世保に着いたのは、1949年8月14日だった。

船が佐世保に着くと、真っ先に乗り込んできたのは2人の日系二世だった。

当時キャノン機関は、航海中に引き揚げ者の身元を調べ、使えると思った人は機関の建物に連れ込んで、工作員になるよう脅したりすかしたりしていた。

辰次郎の場合、すでに日高冨明がキャノン機関員になっていたから、連行は決まっていただろう。

船に乗り込んできた日系二世は、辰次郎を地元のCIC(米軍の諜報機関)に連行した。

そして尋問して辰次郎に間違いないと確かめると、進駐軍の専用列車に乗せて東京に運び、丸の内の郵船ビル(ここはGHQが接収していた)に入れた。

そこで一夜を過ごすと、翌16日の午前8時に新顔の日系二世が迎えに来た。
その男は、「行けば分かる、この事は日高冨明・大佐も知っている」と言った。

辰次郎がジープに乗せられて行った先は立川で、そこには4人の日本人が待っていて、50歳くらいの風間という男がリーダーらしかった。

さらに日系二世の光田と土田(※この2人はキャノン機関員である)が加わり、辰次郎ら7人は米軍の輸送機で仙台に向かった。

仙台に着いたのは10時頃で、車が迎えに来て3階建ての建物へ案内された。

それが仙台CICの建物だと、後に辰次郎は知った。

その建物で一行は休息し、15時頃に7人はジープと黒塗りフォードに分乗して出発した。

辰次郎の隣りに座った風間は、しきりに日本共産党の話をした。
かなり立ち入った話で、共産党の関係者に思われた。

かなりの距離を走って、夕刻に「金谷川小学校」という看板のある辺りで、車は停まった。

大槻という呉服屋があり、その先の学校の横の畠に車を乗り入れた。
その畠地は荒地だった。

車を停めると、「まだ時間が早い」「こんなに明るくちゃ」と囁きかわし、時間をつぶした。

辰次郎は「我々は何をするんです?」と訊いたが、光田は「ノー・コメントだ。我々がやる事を君は見ていればいいのだ。君も専門家ではないか」と言った。

後になって思えば、謀略や破壊工作の専門家という意味だったらしい。

そのうちに日が暮れたが、「まだ早い」と動こうとしない。

ヘッドライトを消して車が畠から道路に出たのは、真夜中だった。

大槻呉服屋の前を通る時、2~3人の人影が見え、日系二世は拳銃を手にしたが、相手は車に近寄って来なかった。

踏切の手前で車を停め、バックで畠の中に入れた。

そして2つの木箱を抱えて全員が降りると、線路に沿って600mほど進んだ。

「まだ早い」というので、煙草を吸ったりした。

光田は大型の懐中電灯を持っていて、それで照らして吸い殻の点検(吸い殻の回収)がすむと、メンバーたちは道具箱からスパナを出して、線路の釘を抜いた。

光田は懐中電灯で線路を照らした。

釘を30本ほど抜くと、1mほどもある大きなスパナで、釘を抜いた線路をねじりずらした。

それで線路の継ぎ目の所が、40~50cmずれた。

作業はそれで終わりだったが、音を忍んでやるのではなく、普通の線路工事とあまり変わらない工作だった。

松川で工作をさせられた中島辰次郎は、そのまま郵船ビルに連れ戻されて、しばらく軟禁された。

そしてキャノン機関に加わり活動するようになった。

以上が、中島辰次郎が筆者に語った「松川事件の工作」である。

筆者は毎月2~3回は辰次郎と会って取材したが、松川事件の話もたまに出た。

その話には「風間の子分みたいな男がいて、清水という名だった」とか「松川事件から数年後に、風間と清水が連れ立って銀座の三越か松坂屋の裏にあった北海道拓殖銀行のビルへ入っていくのを見かけた」もあった。

調べてみると、当時の北拓ビルにはアメリカ関係の情報機関があったと分かった。

辰次郎の証言は、『週刊アサヒ芸能』に発表する事に決まった。

それで1971年7月12日に、同誌の佐々木記者と共に、辰次郎を連れて松川事件の現場に行った。

金谷川小学校に行くと、辰次郎は「どうも様子がおかしい。たしか大槻呉服店はあの辺りにあったはず。それに呉服店の土蔵も見当たらない」と首をひねった。

そこで大槻呉服店に行って聞いてみると、近くに移転しており、土蔵も壊したと言う。

辰次郎が「無人の踏切小屋があったはずだが…」と言うので見てみると、建ち腐れのまま残っていた。

辰次郎たちが小休止で腰かけたという石も、現場にまだ残っていた。

辰次郎の現場における回想と、筆者がとった辰次郎の録音インタビューの内容を比べると、かなり相違した部分があった。

例えば、録音では「線路を40~50cmずらした」と言ったが、現場では「10cmほど」と言った。

後の辰次郎の記者会見では、こうした食い違いを攻められ、嘘の証言をしていると評されたが、事件から21年も経っており、しかも彼は工作の責任者ではなかった。

実は、筆者は松川事件の前夜に、仙台に行くため上野発の夜行列車に乗った。

しかし列車転覆の松川事件が起き、松川駅の先の線路上に降ろされて、徒歩で先へ進んだ。

横転した列車が蒸気を吹き出しており、「犬釘が抜いてあるぞ」と騒いでいる現場を目撃し、強い衝撃を受けた。

だがあの時、徒歩連絡で仙台方面行きの列車に乗ったのか、それとも金谷川駅まで歩いてから乗ったのか、憶えていない。

これを見ても、人間の記憶には限界がある。

もし辰次郎が意図を持って偽証するならば、一定の下書きによって一貫した話をするに違いない。

記憶の糸をたぐるのだから、むしろ多少の食い違いがあるほうが真実を裏付けるのではないか。

さて。
次に、中島辰次郎の語る松川工作の共犯者6人の姿を書こう。

①ミツタ(光田)

当時は27~8歳のアメリカ軍の少尉で、日系二世。
通称はジョー。

丸顔でがっしりした体格、身長は167~8cmで、いくぶんガニマタ気味。

②ツチダ(土田)

25~6歳のアメリカ軍の曹長で、日系二世。
通称はツーチー。

細面で瘦せ型、身長は光田よりもやや低い。

東京・四谷の女性と結婚して、だいぶ後まで都内に住んでいた。

中島辰次郎は、松川事件の後にキャノン機関員になり、光田や土田と共にキャノン機関で働いた。

③カザマ(風間)

52~3歳で、びんに白いものがあった。

中肉中背で、英語は話せない。共産党の関係者か?

④シミズ(清水)

34~5歳の中背で、風間の腰巾着の存在に見えた。

⑤ノッペリ

名前の分からない日本人。

32~3歳で背が高く、のっぺりした顔。
英語は少し話せて、髪はリーゼント。

⑥角形

名前の分からない日本人。

34~5歳の角張った顔の男で、身長は170cmくらいで、光田と似た身体つき。

松川事件の後に、中島辰次郎は共産党系の雑誌『真相』の斎藤記者と話すうちに、「金谷川なら私も知っている」と漏らした。

斎藤記者は「この男は松川事件と関係がある」と睨んだのだろう、松川事件の裁判で赤間被告らが有罪判決になると、辰次郎にこう頼んできた。

「君の身柄は保証し、秘密ルートで中国に送るから、中国に行って日本向けの放送で松川事件の犯人であると告白してほしい」

これを計画したのは、中国から派遣されて東京で諜報機関を率いていた許成茂だった。

中島辰次郎は言う。

「私はかつて、『毛沢東暗殺計画』に加わった過去がある。

だから利用された後に殺される危険もあった。

無実の被告たちには気の毒だったが、私は行かなかった。」

辰次郎が松川事件に関わった事は、キャノン機関員だった韓道峰(日本名は村井恵)や山口茂雄も認めている。

ただし、キャノン機関の傘下にいた矢板機関で働いた竹谷有一郎だけが、「東京に連れてこられて、翌日に松川工作に加えられたのは不自然すぎる。しかし彼が犯行に加わっていなくとも、犯人から詳しく聞いているに違いない」と語った。

筆者は、辰次郎と犯行現場に行ってみて、彼の話しぶりから犯行に加わったのは間違いないと思った。

中島辰次郎の証言が『週刊アサヒ芸能』に載ると、『週刊プレイボーイ』では松川事件を21年追ってきた記者のコメントとして、こう書いた。

「中島は仙台のCICに行ったと言う。だが現場に最も近いのは福島のCICで、やるとすれば当然ながら福島CICが動いたはずだ。」

この記者は、謀略工作は近くにいる者がすると考えているらしい。

しかし秘密工作をする場合、疑いをかけられないように、わざわざ遠い所から工作員を連れてくるのが常識である。

(2021年10月2日に作成)


松川事件①を読む

松川事件②を読む

『日本史の勉強 敗戦・GHQの占領下~形だけの独立まで』 目次に戻る

『日本史の勉強』 トップページに戻る

『サイトのトップページ』へ行く