(『戦後秘史・第7巻』大森実著から抜粋)
松川事件が発生したのは、1949年8月17日であった。
この列車の脱線・転覆の事故で、機関士・石田正三と機関助士・伊藤利市が即死し、機関助士・茂木政市もまもなく死亡した。
この事件は、下山事件、三鷹事件の直後だったため、世の注目を浴びた。
福島地裁の第一審では、死刑5名など、被告は全員が有罪となった。
二審でも死刑4名。
だが最高裁は、二審判決を差し戻した。
そして差し戻し審の結果、被告は全員無罪の判決が下った。
要するに、米軍占領下の時代は死刑判決だったのが、日本が独立すると全員無罪となったのである。
松川事件の事故現場は、福島県の金谷川駅から東京方面に向かいカーブになった所だった。
福島県警本部は、事件発生日のうちに、1.5mの金テコのバールと24cmのスパナを凶器として発見した。
レールの継ぎ目板2枚、犬釘2本も、現場近くの水田で見つけた。
警察の発表では、レールを枕木に止めるための犬釘が25本も抜かれており、凶器のバールとスパナは国鉄の松川線路班の詰所から持ち出されたという。
事件翌日の8月18日に、日本政府の増田甲子七・官房長官は、「三鷹事件に続く各種事件と、思想的底流において同じである」と談話し、事件の背後に日本共産党がいると示唆した。
三鷹事件と同じく、容疑者が次々と検挙されていき、第一審・判決(50年12月6日)で死刑5名など、20名の被告が全員有罪となった。
このうち16名が共産党員で、3名が民青同盟員であった。
元線路工夫の赤間勝美(19歳)が逮捕されたのは、1949年9月10日であった。
逮捕理由は暴行容疑、つまり松川事件とは別件逮捕だった。
赤間勝美は、45年3月に小学校高等科2年を卒業して、国鉄・福島保線区・永井川線路班の線路工夫となった。
4年3ヵ月の勤務をしたが、49年7月5日に国鉄の第一次・整理で首切りとなった。
勝美は首を切られた2日後の7月7日に、「伊達駅事件」で逮捕されていた。
この事件は、首切りを不満とした国鉄の労働組合員が、伊達駅に押しかけたものである。
勝美は暴行容疑で49年9月10日に逮捕されると、3日3晩にわたって福島地区署・捜査課次席の玉川正・警視の取調べをうけた。
さらに福島地検の山本諌・検事の取調べも受けた。
そして勝美の自白によって、9月22日に7名の容疑者が一斉に検挙された。
7名を逮捕した時、新井・国警隊長と安西・検事正は「極秘裡に科学捜査を進めて証拠を握り、一斉検挙に踏み切った」と共同発表した。
だが、科学捜査をした形跡はなく、事件当日の現場検証さえ初歩的調査を欠いていた事実が、新聞で指摘された。
この後も、自白を繋いで芋づる式の逮捕が行われた。
赤間勝美は、勾留中の1949年10月5日に、面会に来た兄・博と、次の会話をした。
兄(博)
本当に松川事件をやったのか。
弟(勝美)
うん、オレがやった。
兄
お前がやったなら死刑だが、覚悟しているのか。
弟
オレは死刑にならない。
今日オレは、山本諌・検事さんに上申書を出し、寛大に取り扱ってもらいたいと、署長さんにも頼んだ。
ここ(保原署)の署長さんは、オレに良くしてくれる。
飯は二人前でタバコもくれる。
(勝美の自白後、ご馳走が与えられ、風呂に入ると署長が背中を流し、酒も飲ませた)
兄
祖母は、お前がやったなら死んだほうがいい、とまで言っている。
本当の事を言ってくれ。
弟
本当はオレ、やってない。
兄
お前は刑事や検事に騙されているんだ。
いくら山本(検事)がうまい事を言っても、やったとなれば死刑だぞ。
オレは共産党員だ。ヤツらは、オレたちを弾圧しているんだ。
最近になって、刑事連中が家に来て尋問していった。
共産党を弾圧し、労働組合を弱めようとしているんだ。
弟
兄ちゃんまで、どうして引っぱられるのか。
兄
嘘をついて、やったと言って、それでいいのか。
お前のために、皆がひどい目に遭っている。
弟
オレは、官選弁護人を1人頼もうと思っている。
兄
バカを言うな。官選弁護人なんてダメだ。
ヤツらは、みんなグルになっている。
安藤貞雄(列車転覆が起こるぞという、勝美の予言を聞いたといわれる人物)に本当にあんな事を言ったのか。
弟
言ってない。
でも貞雄があんな証言をし、ばあちゃんもオレが「朝7時頃に帰った」と証言したから、もうダメなんだ。
兄
それはみんな嘘だ。お前は騙されている。
明日は開示公判だろう。
弟
オレは、やったと言うつもりでいたが、どうしたらいい?
兄
黙っていたっていいんだよ。
後で大塚さん(弁護人)が会うから、よく聞いておけよ。
弟
うん、兄ちゃん、明日に着ていく上着をくれないか。
翌10月6日の公判では、被告たちは事件に無関係であると主張し、取調べで拷問や誘導尋問があった事を暴露した。
赤間勝美は「今は何も言いたくありません」と言っただけで、そそくさと退廷した。
第一審の判決後に、赤間勝美が出した控訴趣意書には、次の内容が出てくる。
「警察の玉川正・警視から取り調べされた時、『お前は女を強姦しているから、重い罪にしてやる』と、六法全書を見つつ言われた。
それに、『皆の前で実演させる』と言うので、本当に恐ろしくなって、『それはやめて下さい』と言いました。
玉川警視は、『それならば誰に(列車転覆の予言を)聞いたか、早く言え』と責めるのです。
私は『誰からも(予言を)聞いてないから、(予言を)言った事はありません』と言いました。
玉川警視は『嘘をつくな。言わないなら実演させてやる。女はお前に強姦されたと言っている』と言い、その女の調書を見せられた。
私はますます恐ろしくなり、『どうかやめて下さい』と言いました。
玉川警視は、『嘘ばかり言うと、一生、刑務所にぶち込んでやる』とか、『零下30度の網走刑務所にやって、一生出られなくしてやる』と、六法全書を見せて言ったのです。」
ところが、赤間勝美に強姦されたという兼子ツヨ子の、第一審公判における証人尋問の供述では、強姦された覚えはないと否定している。
問(大塚弁護士)
あなたは赤間勝美を知っていますか。
答(ツヨ子)
はい。
問
あなたは赤間のことで、取り調べを受けましたか。
答
はい。呼びに来たのは警察の土屋さんでした。
問
事件のこと、『かような大きな事をするかどうか、事前に(赤間から)聞かなかったか』と、聞かれませんでしたか。
答
聞かれました。
問
あなたは赤間と交際した事がありますか。
答
交際してました。
問
赤間から暴行を受けたことがあるかどうか、警察から聞かれましたか。
答
聞かれました。
私は『暴行されていない』と言うのに、『赤間はやったと言っている』と執拗に聞かれました。
問
調書にどう書いたのですか。
答
暴行されたと書いてしまいました。
問
本当は暴行されてないのに、そのように書いたのですね。
答
左様です。
赤間勝美の祖母ミナ(76歳)の証言についても、弁護団は取り上げた。
ミナは大塚弁護士の質問に対して、こう証言した。
「(事件当夜の)0時から1時の間に、勝美が部屋に入ってきた。
私が『何時だ』と聞くと、勝美は『まだ1時前だ』と言って床に入って寝た。
2時すぎだと思うが、親戚で泊まりに来ていた小野寺悦子(12歳)が、小便に行きたいと言うので一緒に行ったが、その時に勝美はたしかに寝ていた。
警察に調べられた時、これと同じことを話したが、字が読めないのに誰も立ち会わせてくれなかった。
そして調書に拇印を押させられた。」
(※松川事件は、午前2時台に犯行が行われたと推定され、ミナの証言で勝美のアリバイが成立することになる)
だが勝美が勾留中に警察で読み上げられた、ミナの調書には、こうあった。
「12時か1時ごろ、勝美が帰ってきた気がするが、14、15、16日のいずれの晩か、はっきり分かりかねるので、勝美が帰ったか不明である。」
警察が、ミナの供述をデッチあげて、勝美の自供を誘導したのは明らかである。
勝美は、「祖母の調書を見せられた時、自分の無実を証明してくれる人がいなくなって、目の前が暗くなってしまった」と語っている。
赤間勝美は、第一審・公判の3日目に、こう話した。
「私は松川事件は全然やらないし、関係がありません。
松川事件について11日間も取り調べられ、警察の人に『松川事件を自供しないと、一生、監獄にぶちこむ』と脅かされました。
取り調べは、午前9時から午後11時まで行われ、夜中の2時半まで調べられたことが2~3回ありました。
やっていない事をやっていると言って、(私以外の)19人の被告人をどうして罪に落とすことができましょう。
私にはできません。」
そもそも第一審・公判で、山本諫・検事が読み上げた「起訴状」は、杜撰であった。
問題部分を抜き出すと、こうである。
「被告人らは、他数名と順次共謀のうえ、バールとスパナ等を使用し、犬釘と軌条支材等を抜き取り」
弁護人は強く抗弁した。
「共謀相手の他数名とは、誰のことか。
順次共謀とは、いつ、どこで、だれが何を共謀したのか。
バール、スパナ等の等とは、何なのか。
犬釘、軌条支材等の等も、何を指すのか。
こんな杜撰な起訴状では、被告側は防御のしようがない。」
検察側の言う共同謀議は、最初は1回とされたが、公判が回を重ねると検察は2回や5回に変えた。
謀議の内容や出席者の顔ぶれ、謀議した場所さえも、変更を重ねた。
赤間勝美以外で警察に自白していた7人の被告も、福島地区署の玉川正・警視らによる怒号、強迫、誘導で生まれたデッチ上げの自供と判った。
被告の1人である二階堂園子は、取り調べの実態を公判で語っている。
「5人の刑事からガンガン怒鳴られた。
がたがた身体が震え、椅子に腰掛けるのがやっとだった。
笠原刑事が見せた調書には、私がバールとスパナの盗み出しを目撃したと書かれていた。
私は調書をもみくちゃにしたが、熊田、木村の両刑事は『公文書破棄罪と証拠隠滅罪で重刑にしてやると』と脅かした。」
検察は共同謀議を、東芝松川工場・労組の太田省次の自白を根拠としていたが、この「太田自白」も赤間自白と同じで、強迫によるデッチ上げだと公判で明らかになった。
松川事件の第一審の判決は、1950年12月6日に行われた。
長尾信・裁判長は、判決文の朗読中に読み方が分からなくなり、合議をしたり、証拠関係の朗読を飛ばしてしまうなど、前代未聞の醜態をした。
やがて、一審判決は鉛筆で走り書きした未完成草稿を読み上げたものと分かり、判決を急がせる米軍の圧力があった事はもはや歴然となった。
仙台高裁の第二審では、弁護団は検察の出した物証を衝いた。
まず赤間勝美が列車転覆の工作に使ったとされる、手袋が鑑定に出された。
山形大学の田中道一・教授が鑑定したところ、赤間自白にある修繕の跡はなく、麻糸も付いてないと分かった。
次に、自在スパナとバールを、山形大学の武蔵倉治・教授が鑑定した。
すると現場で見つかった24cmの自在スパナでは、継ぎ目板のボルト・ナットを取り外すことが不可能と断定された。
さらにスパナとバールが、国鉄の規格外製品であると判明した。
仙波博士の鑑定でも、スパナが柔らかい軟鉄製のもので、日本の標準規格品として不合格品だと分かった。
次に、犯行グループに加わったという高橋晴雄の、身体障害度の医学的鑑定が行われた。
東北大学・医学部の藤本賢司・助教授は、「暗い夜間に、高橋の歩行能力では、とうてい(犯行現場まで)歩行し得ない」と、彼が現場に行けないと鑑定した。
第二審の判決では、第1回目の謀議は未成立として、3被告が無罪となったが、17被告は有罪(死刑4名を含む)であった。
その後、新たな材料として『鈴木ノート』が発見された。
被告の1人である鈴木信が、第2回の共同謀議が行われたとされる8月15日に、別の場所に居た事を実証するものだった。
さらに8月15日の謀議を決定的に否定する物証、『諏訪メモ』も発見された。
事件当時に、松川工場の事務課長補佐だった諏訪親一郎が、「8月15日に佐藤一(被告の1人)などと団体交渉をしていた事は、メモに取ってあった。警察を通じて提出しておいたが、裁判には出されなかったのですか」と話したのだ。
弁護団は『諏訪メモ』を探すことにし、警察と検察が隠している事実が、1957年6月24日の朝日新聞と河北新報に載った。
毎日新聞の倉島康・記者が『諏訪メモ』の行方を突き止め、特ダネとして報じた。
この警察と検察の証拠隠蔽は、世論の猛批判をくらい、国会でも大問題となった。
その結果、『諏訪メモ』が8年ぶりに返却され、証拠として裁判所に提出された。
これで被告のアリバイが決定的になった。
最高裁の判決は1959年8月10日に出たが、「8月15日と16日の謀議があったか疑わしい」として、仙台高裁に差し戻した。
仙台高裁の判決は61年8月8日に出たが、17被告の全員が無罪となった。
残された問題は、『だれが真犯人なのか』である。
ここで、カリフォルニア大学のチャルマーズ・ジョンソン教授が1972年に発表した、『松川の陰謀』という本を紹介したい。
チャルマーズは、日本の裁判記録、弁護団の持つ記録、新聞の切り抜き、アメリカ公文書館にある日本占領の記録を調査し、本にまとめた。
松川事件の起きた福島県では、猪苗代湖を中心とした日発の発電所の建設のために、太平洋戦争の時に、「ウサギ狩り作戦」で強制連行してきた中国人や朝鮮人を働かせた。
戦後になると、GHQは福島県にいる朝鮮人労働者を、共産主義の集団としてマークした。
松川事件の当時、GHQの統計によると、福島県が東北で最も共産党員が多く、党員は1359名、シンパは3万4427名だった。
松川事件が起きてすぐに、共産党のやった事件と決めつけた増田甲子七・官房長官は、福島県の前知事であった。
GHQは、仙台のCIC(対敵情報部)を、松川事件の発生前に急速に拡大し、若松・郡山・平に分遣隊を特設していた。
福島CICは、事件発生前に30名の工作員を抱え、アンドリュース少佐の下に、ペテート大尉、ペロン大尉、タッバートン中尉、ケリー中尉、フェイバー中尉、シャノン中尉、ボーハム准尉、テルキ准尉らの、白人の将校・下士官が居た。
さらに東准尉、ジョージ山中、ジョージ中戸川、ヘンリー岩垣、ジム藤田らの、日系二世も抱えていた。
福島県は、労組や共産党が強くて、「ドッジライン反対」の活動が活発だった。
だからこそ1949年6月30日に、平事件と福島県会赤旗事件が起きた。
平事件は、平駅前の掲示板を、共産党が平警察署から許可を得て使っていたところ、福島軍政部の強権発動で除去された事から始まった。
除去に怒った矢郷炭鉱の労働者ら400名が、平署に乗り込んで占領し、拘留されていたデモ隊員を留置場から解放して、警官を留置場に入れて勝鬨をあげた事件である。
福島県会赤旗事件は、同日に、福島県会に押しかけたデモ隊が、傍聴席で赤旗を振るい、肝をつぶした県会議員が退席した事件である。
デモ隊は湯本と内郷の警察署にも押しかけ、「平市に応援に行かない」との誓約書を書かせていた。
米軍と日本警察は、これを日本共産党の革命演習と見た。
福島県が徳田球一の提唱する「九月革命」の忠実な前衛であったことは否定できないだろう。
福島県での朝鮮人と共産党の連携は、1948年9月にGHQから暴力団の取り締まりを命じられた福島県警が、川徳一家と反共同盟を一斉に検挙したためという。
警察が朝鮮人の村落を、密造酒の摘発で急襲し、拠点を奪われた朝鮮人たちが日共を隠れ蓑とした。
ドッジラインで首切りの嵐になると、炭鉱の労組はストライキで抵抗し、組合員は日共へぞくぞくと入党した。
これを米軍は危険視したのだ。
前述の『松川の陰謀』では、福島民報の編集局長だった永沢茂美の報告に注目している。
永沢茂美は、日本少女歌劇団をめぐる奇怪な動きを報告したが、それをここから述べる。
松川事件が起きる数時間前、松川駅から100mも離れない所にある松楽座という芝居小屋で、日本少女歌劇団という劇団が興行を打っていた。
この劇団は、戦時中に満州や朝鮮で軍の慰問公演をやっていた島幹雄が、経営していた。
島幹雄は、戦後になると占領軍に取り入り、日本各地の軍政部やCICと接触し、CICの了解の下で公職追放された元特高を雇い入れていた。
松川事件の当夜に起きたことを、松楽座の楽屋裏を取り仕切っていた野地タケは証言した。
「その夜は興行の予定が無かったのに、突然やることになった。
興行前に、島幹雄は警官と会っていた。
少女歌劇団の一行は、地元の旅館に泊まっていたが、男子団員が蒲団が汚れているとケチをつけ、2台の車で10人くらいが松川事件の起きる前に、旅館を探すと言って出ていった。」
警察が、この少女歌劇団を全く捜査しなかった事も、明らかになった。
この歌劇団と関係があるかもしれない謎の手紙が、1958年11月21日付の消印で、松川事件の弁護団の松本善明に届けられた。
「松川事件で起訴された被告たちは、全員犯人ではない。
真犯人たちは、私たち7名と、共産係の2名が関係している。
犯人でない被告たちが、10年も無実の罪で苦しんでいるのが、気の毒でたまらない。
私たちは、場合によれば自首して出るつもりである。
私たちは、名古屋に3人、前橋に2人、岡山に2人と分散している。
いずれも鉄道関係者でも、東芝・松川工場に関わる者でもない。」
この差出人が不明の手紙は、いたずらにしては文章が真面目で、文中にある「共産係」という言葉が、CICの使う「共産党係」という呼び方に通じていた。
『松川の陰謀』で、著者はこう述べている。
「弁護団の推理によると、犯行は福島CICの日系二世の協力の下、7人ないし9人の県外人(日本少女歌劇団に加わっていた元特高)にやらせたものだという。
犯人たちは、同夜に転覆現場の付近で、2人の強盗に目撃されていた。
2人の強盗は、目撃した人影は9人だと証言した。
弁護団は、謎の手紙の主こそ真犯人で、良心に苛まれて手紙を書いたが、裁判が被告たちに有利に転回しはじめたので、自首の考えを捨てたという。」
差し戻し最終審に、証人として出廷した2人組の強盗は、事件当夜に松川で土蔵破りを企んだ村上義雄と平間高司であった。
2人は「現場付近で、3人と6人を見た。飯坂温泉はどちらの方向かと話し合っていた」と証言した。
前述した福島民報の編集局長だった永沢茂美は、職務を通じて福島軍政部や福島CICや、日本警察と深い関係にあった。
この情報網から、CICと警察や日本人右翼が、福島郊外の飯坂温泉・若喜旅館で、密会を重ねていた事を知った。
さらに若喜旅館に、福島CICのジョセフ・マッサーロが住み込んでいるのも知った。
2人組の強盗の証言に出てくる「飯坂温泉」は、永沢報告と合致している。
『松川の陰謀』では、もう1つの怪文書も取り上げ、こう書いている。
「英語が母国語でない人間が書いた英文の手紙が、1952年6月11日に発信された。
この手紙の差出人も、事件当夜に現場を通りかかり、1ダースほどの米兵がレールを枕木から外しているのを目撃していた。
この目撃者は米兵に尾行され、口外したら米軍の軍事裁判にかけるぞと脅された。
この男の名は斎藤金作だが、彼は福島CICに呼び出された後、福島から逃げ出して横浜で輪タク屋になった。
金作は、横浜の運河の水面に浮いた死体となって発見された。」
しかしチャルマーズ・ジョンソンは、『松川の陰謀』でこう結論している。
「ソ連のスターリンは、日本共産党に武装蜂起の指令をしていた。
さらに日本には、シベリア抑留からの帰還者グループもいた。
鹿地事件で出てきた三橋正雄も、横浜で死体になった斎藤金作も、シベリアからの帰還組だ。
彼らはシベリアで思想教育を受けて帰国した。
松川事件のような破壊工作の訓練もしていたかもしれない。
シベリア帰還者の多くは、東北出身者だ。」
米人学者のチャルマーズの結論は、松川事件の犯人を米軍と考えたくない祖国愛があったといえる。
最後に、松川事件を追ってみた筆者の心証を述べる。
筆者としては、GHQがドッジラインという政策を行うために、これに反対する日本共産党と労働組合を弾圧しようとし、松川事件を起こして共産党員らを一斉逮捕して、計画通りに首切りを実行したと見るのが、受け容れ易かった。
松川事件は、ドッジラインへの報復ではないだろう。
ドッジラインは、米政府が指令して、吉田茂・内閣と財界が積極的に進めた。
国鉄の9.5万人の首切りや、東芝の整理(工場閉鎖)に伴う大量首切りで、労働者にしわ寄せがきた。
日本共産党の徳田球一・書記長は、ドッジラインに対して「九月革命」という勇ましい突撃ラッパを吹き鳴らしたが、空々しい響きしかなかった。
福島県では、前述した平事件が発生していたから、GHQと日本警察は松川事件を起こして、先鋭分子を一挙に潰滅する計画を立てたのだろう。
(2020年9月20~22日に作成)