下山事件②

(『日本の黒い霧』松本清張著から抜粋)

(※この記事は、下山事件①の続きです)

初代の国警長官になった斎藤昇は、回想記にこう書いている。

「私が山梨県知事から内務次官に転任して、GHQの関係部局に挨拶廻りに行った時、GSの有力な某大佐(ケージス大佐)がこう云った。

『どうも最近、警視庁がわれわれの女友達やその身辺を調べているとの風評がある。事実なら怪しからぬ、厳重に警告する。』

1ヵ月後に再び某大佐から呼び出しを受けて、『警察官の調査は継続しており、私の女友達を調べている』と調査に行った警官の名刺を私に突きつけた。

私が警保局長を呼んで聞いてみると、内務省の調査局長である久山秀雄が警視庁に調査を依頼していると分かった。

某大佐は日本の占領政策の立案の中心人物だったが、その政策は左翼的で或いは共産主義者ではないかと批評する者もいた。

G2と親しい吉田内閣の某要人S氏は、G2と一緒になって大佐を日本から去らしめようと計画し、大佐の非行を掴もうとして久山氏経由で警視庁に調査させていたのだ。

そこで私は、『捜査を打ち切った』と報告した。

それから1年近く経ち、警視総監になっていた或る日、その大佐から『君の報告は嘘であり、この策謀は政府の某要人に命じられて久山氏がやらせたと分かった』と云ってきた。」

斎藤昇は、自らの罷免問題も書いている。

「1949年7月初旬に、増田・官房長官から、国家公安委員長の辻二郎に面会を求める電話があった。

辻が会いに行くと、『斎藤・国警長官を辞めさせたい』ということだった。

辻は『辞めさす理由が公安委員会としてない』と反論したが、増田は『政府の要望を入れてほしい。また本日の会見内容は極秘にするように』と云った。」

結局、斎藤昇は留任となるのだが、彼は書いている。

「この問題は、増田・官房長官の発意ではない。

この罷免問題の起こる2~3ヵ月前に、GSが最も嫌っている某要人を吉田茂・総理が側近にしている事について、間違っていると増田に話したのが火に油を注いだのかもしれない。」

上記の背景には、G2とGSの暗闘がある。

そしてこの暗闘を理解しなくては、下山事件は解けない。

G2の直轄下にCICの各機関が置かれていたが、CICの東京地区を担当したのがガルシェン大佐である。

この東京地区の特務機関の1つが、キャノン機関だ。

キャノン機関が下山事件と関係あると色々な文書で云われているが、私は関係ないと思う。

キャノン機関は後年に鹿地亘事件をやって名前が暴露されたが、CICの中ではいわば失敗した機関である。

CICと云えば直ちにキャノン機関に結び着く今日のジャーナリズムの安易さは、改めねばならない。

GHQが日本に上陸してまず手を着けたのは、軍閥・右翼・右翼的財閥を一掃する事だった。

これらを一掃してアメリカ的な統治を敷くのが狙いで、「民主化」という美しい名前で活動したのがGSである。

GS次長のケージスは、旧秩序を破壊するために日本共産党を利用しようとした。

そのため終戦までは非合法政党だった日本共産党は、俄かに台頭して1949年には国会に35議席を得るまでになった。

このGSの政策に猛烈に反撃したのがG2で、その先頭に立ったのがウィロビーである。
G2は、ケージスらを追放する謀略を練るようになった。

この情勢の中で、下山定則は国鉄総裁になったのだ。

CTSのシャグノンは、国鉄改革で2つの任務があった。

1つは対ソおよび対中国の戦争に向けた輸送計画であり、もう1つは国鉄労組における急進分子の追放である。

後者の場合は、GHQが自ら蒔いた種を、自ら刈り取る結果と云っていい。
なんとなれば、軍国主義の払拭に用いた共産党育成が思わぬ成果を上げ、日本のあらゆる分野で共産党の同調者が急増したからだ。

この思わぬ成果にGHQは愕然となり、G2の線に政策が一本化された。

そして自ら育成した民主的空気を方向転換させるため、日本国民の前に赤を恐れる衝撃的な事件を見せたのだ。

49年7月5日の下山事件を契機として、三鷹事件、横浜人民電車事件、平事件、松川事件などが相次いで起き、G2がGSとの闘争に勝ち、GHQは右旋回で一本化した。

この右旋回をするために、ウィロビーはCICを使って謀略を行ったのだ。

従ってシャグノンは、下山定則が国鉄総裁になると、どのような人物かを悉く知らされたに違いない。

下山定則は鉄道省に入り、運輸次官まで出世したが、省内に勢力を持っていなかった。

彼は参議院議員に立候補する野望を持っていた。

シャグノンとしてはヒモの付いていない定則は言うなりになると考えていたが、国鉄総裁になった定則は意外にも反骨精神があったのである。

国鉄内の共産分子を追放するためのGHQの調査は、甚だ粗漏で、ろくに調査されずにクビの対象になった者は多かった。

人情家といわれる定則は、独自にリストラ・リストを作り抵抗したかったに違いない。
そのために独自の情報網を求めたのだ。

定則らは首切りを単なる合理化と考えていたが、GHQにとっては米軍のための(軍事作戦のための)問題だった。

そこに日本側とGHQの食い違いがあり、定則の殺害につながった。

国鉄整理はGHQにとって軍事作戦だったのである。

これに対し国鉄労組は、日本政府と同じに大量首切りを経済問題と捉えて、強力な反対闘争を決議した。

実力行使については、共産党の徳田球一らは「それはまだ早過ぎる」と云って危ぶんだくらいであった。

7月5日の朝、下山定則・総裁は千代田銀行本店に20分間入っている。

調べたところ、同銀行内の貸金庫に定則の戸棚があり、そこには百円札の束が1万円ずつ3束残っていた。他に株券もあった。

彼はその朝、金を取り出しに来たのではないか。
もしそうなら、何のための金だったのであろう?

まず女が考えられるが、愛人の森田のぶには当日会っていない事が分かった。

私の推測では、自分に情報をくれる人物に渡す金だった。

この日、定則は午前10時から人員整理の重要会議があり、その報告で11時にGHQに行かねばならなかった。

彼はその前に、高度な情報をくれる人物から大事なレポをとる必要があった。

定則は運転手に、「三越へ行け」「白木屋でもよい」と云った。

情報提供者との会見場所は三越の店内で、地下道に近い場所だった可能性が高く、この地下道は白木屋から降りても通じていた。

「神田駅へ回ってくれ」とも云ったが、三越も白木屋もまだ開店していなかったので、神田駅から地下鉄で「三越前」に降りるつもりだったのだろう。

彼は神田駅で車を降りなかったが、これから会う相手に渡す金が必要だと思い出したからだろう。

だから千代田銀行に寄ったのだ。

しかし定則は、果たして情報屋Xに地下道で会ったであろうか。

待っていたのはXではなく、謀略を持った別の人物だったと私は推測する。

「下山事件の捜査最終報告書」(※下山事件白書)で、三越の店員が定則を目撃した証言があるが、これは本人であったと思う。

殊に高田喜美子が「その男の後を2~3人の男が同時に階段を降りて行ったが、伴れか分からない」と証言しているのは注目してよい。

次の電車内での目撃情報は、本物の定則ではない。

末広旅館に来たのも本物ではなく、五反野駅の付近で18時以後に見かけた目撃情報も定則ではない。

末広旅館で休憩した替玉は、3時間半ほどの休憩で1本も煙草を吸っていない。
煙草好きの定則が、思い悩んでいる状況で1本も吸わない理由が分からない。

さらに女主人の長島フクが「宿帳を書いてくれ」と頼んだが、替玉は「それは勘弁してくれ」と逃げて筆跡を残さないようにしている。

また、夕暮れ時の18~19時に沢山の目撃者が線路をウロウロする定則を見ているが、悉くその服装を正確に云い当てている。

人間の眼が当てにならないのは実験でも報告されているが、相当な日数を経ているのに正確に云い当てるのは驚嘆すべきことだ。

下山事件は連日大きく報じられたので、目撃者たちは新聞記事の印象がいつの間にか意識の中に沁み込んだのだろう。

捜査二課が事件直後に調べた時は、そんな証言は出なかったのだ。

ここでもう一度、『アメリカのスパイ謀略機関』との題で発表された文章を見よう。

「アメリカ・スパイ機関は、日本人のスパイに報酬を支払った。

売り込んできた官僚には、それぞれ抜擢してやった。

こういう親米分子が、政界・官界に組織された。

G2は警察と検察庁を完全に掌握したが、さらにこうしたスパイ分子を握ったのだ。

上級スパイは個人で掌握されたが、下級スパイは班を作っていた。

班を作った時は、米軍の中尉か少尉の日系二世が指揮官として配置された。

旧軍人、旧特高、旧右翼が班を作る場合は、1人の責任者を決め、この責任者が旧部下を集める方法を採った。

そしてその責任者の名前を取って機関名とし、米スパイ機関が資金を提供した。

大部分の機関は、今も謀略活動を続けている。」

この文章には、日本人の名前がいろいろ出てくる。悉く現存の人であるから引用しない。

ただし機関の責任者たちが旧軍人の相当の位置の人であり、また右翼や共産党転向組も含まれていると書いておく。

下山定則に成りすました替玉が、どの機関から派遣されたか、凡その推定はつくが、確かなことは云えない。

替玉はその任務を受けただけで、定則の運命は知らなかったであろう。

18時くらいに五反野駅付近で定則を見かけた目撃者たちは、ほとんど洋服の色やネクタイの模様を云い当てているが、実はこの洋服とネクタイは本物であると考える。

その理由は、定則の死体が下着だけの裸であったと思われる事だ。

死体は、上着よりも下着のほうが黒い油で汚れていた。
だから下着だけの状態だったと考えられる。

犯人が下着だけにした理由は、殺害のためと、替玉に上着とネクタイを与えるためだろう。

では靴はどうか。靴では犯人は失敗をしている。

定則の靴はチョコレート色の短靴で、毎朝に同居人が赤色のクリームを塗り、定則は街頭で決して靴を磨かせなかった。

ところが発見された靴には茶のクリームが塗られていた。

これは靴が汚れたので、犯人が同色の茶クリームを塗ったのであろう。

クリームを塗ったという事は、ゴミかホコリがかなり付いたと想定でき、そのゴミかホコリが調べられると現場を特定できるものだったと考えられる。

靴の裏には、葉緑素が付着しており、東大の薬物学教授の秋谷博士は「検査してみると明らかに衣類の染料だった」と証言している。

ワイシャツからも色の粉が検出されており、定則はそのような場所に監禁されたと考えられる。

下山定則は、事件のあった7月5日以前に、たぶん前日に情報提供者と会う約束をしていた。

4日の13時に彼は、増田・官房長官と一緒に吉田茂・首相に会いに行ったが、用事があると云って中座した。

調べたところ国鉄に重要会議はなく、おそらくその時刻に情報提供者と会う約束だったのだ。

こう考えると、5日の9時すぎに三越で落合う約束に変更され、そこに行ったと分かる。

定則は三越の地下道で情報提供者と会い、話を済ませて10時までに国鉄のオフィスに行くつもりだった。

ところが別の男が居て、「彼の居る場所に連れて行く」と云って誘い出したのではあるまいか。

しかもその連れて行かれる場所は、10時の国鉄会議に間に合う、極めて近い距離を告げられたに違いない。

定則は4日に、警視庁総監室や法務庁、国鉄の公安局長室などをウロウロし、非常に落ち着きのない不審な挙動をした。

情報提供者が現われなかった事から不安になり、警察や保安関係を廻ったが打ち明ける決心がつかなかったのだろう。

そこに情報提供者からの連絡があり、跳びついたのだ。

定則は犯人たちに拉致され、車に乗せられたはずだが、連れて行かれたのはCICの本拠となっていた郵船ビルあたりだろう。

そこで黄ナンバーの車に乗せかえられた。

当時の黄ナンバーは外国人用の車であり、日本の警察が検問する自由は全く無かった。

国鉄副総裁の加賀山之雄は、こう書いている。

「下山総裁を乗せた車を目撃した人がある。
その車は議事堂から狸穴の方に向かって行ったという。

これは下山氏の顔を知っていた人の話であり、他の目撃者の話よりも確かであろう。」

定則が連れ込まれた場所は、「黒っぽい油」と「色の粉」が決め手になる。

しかし殺害現場の推定は後回しにしたい。

下山定則は、いかなる方法で殺害されたのであろうか。

彼の死体に血が非常に少なかった事を思い出してもらいたい。

死体は、右腕の付け根が線路の軌条に当てがわれていた。そのために右腕は切断され、右腕の腋下あたりがメチャクチャになっていた。

人を殺害する方法には、血を抜くのがある。

腕の付け根をメチャメチャにされている所から見て、或いは右腕腋の静脈から血を取られたのではないか。

この推定は古畑博士も云っていることだ。

或いは急所を蹴られて悶絶している間に、血を抜かれたのかもしれない。(死体は陰茎と睾丸が内出血している)

彼は殺された後、轢断場所に運ばれた。

死体の運搬は、まず自動車が考えられるが、あの現場は線路までは自動車が来られない。

従って自動車で運ぶ場合、死体を人力で運んで線路に置かないといけない。

警視庁捜査一課は定則の体重と同じ重さの人形を作って、現場に運ぶ実験をしているが、極めて困難と報告している。

そうなると、汽車で運んで現場に投げ降ろし、いったん隠して次の列車に轢断させる方法しかない。

現場の線路の枕木には点々と血痕があり、現場近くのロープ小屋の扉からも血痕が見つかっている。

枕木の血痕は東大で検査されて、定則と同じAMQの血液型と分かった。
これは珍しい血液型である。

これを考えると、まず血痕のあった枕木の所で死体が列車から降ろされ、一旦ロープ小屋に運ばれて隠された。

死体を現場に運んだ列車は、轢断列車のすぐ前に走ったと見ていいだろう。

轢断した第869貨物列車のすぐ前に走ったのは、進駐軍(米軍)用の1201列車である。

現場通過時刻は、1201列車が11時18分、869列車が0時19分だ。

当時は列車のダイヤは進駐軍に握られていたが、警察には進駐軍を調査する権限はなかった。

轢断現場は、カーヴから50mばかり進んだ所だった。

カーヴといえば、松川事件でも北海道の芦別事件でもカーヴ近くで事故が発生している。
これは偶然ではなく、カーヴを利用する癖を持っていたのである。

1201列車を使う計画を立てた時、犯人たちはその時刻の現場の状況を数日に渡って調査したと思う。

現場は人家もなく、人気がない。

死体は列車から降ろされた後、すぐ近くのロープ小屋に運ばれた。

そして869列車が差しかかる前に、小屋から200m離れている轢断現場に運ばれた。

死体を列車で運んで現場付近で落とす役目の班と、これを受け取って轢断場所に置く班とは、別々であったと思う。

彼らは個々に上からの命令に従ったのである。

この方法は謀略について全部云えることで、実行班には横の連絡は取らせない。

むろん指令する人間は別の場所にいてボタンを押すのである。

そこで思い合わされるのは、下山事件が起きる前にあった不思議である。

事件の前日に、鉄道弘済会本部の社会福祉部に勤務する宮崎清隆に電話があり、「今日か明日、吉田か下山かどっちかを殺してやる。革命の時が到来したら戦場で白黒つけよう」と云って電話を切った。

さらに新宿の甲州街道寄りの陸橋に「下山を暁に祈らせろ」とか「下山を殺せ」というビラが、事件の2~3日前から貼られた。

つまり謀略班は、一方では殺人予告をしておいて、下山総裁が怪死する雰囲気を作っておいたのである。

従って下山定則は少なくとも2~3日前から殺されるのが決定していたと思われる。

むろん、ビラ貼りや電話をした連中は、定則が実際に殺されるとは知らなかっただろう。

いよいよ黒い油と色粉の問題である。

読売新聞記者の堂場肇の『下山事件の謎を解く』という本には、こうある。

「捜査一課は油について、機関車の油だと簡単に決めてしまった。

しかし秋谷博士と捜査二課は油の捜査を行い、機関車の油とは全く違うと結論した。

さらに当時は油不足で、鉄道関係でも油をあまり使用できなかったはずだが、下山総裁の着衣(下着)はぐしょぐしょで、300gもの油が沁み込んでいた。」

捜査二課は油の捜査を行い、百数十種の油を工場から集めて着衣の油と比較したが、同じものは発見できなかった。

この油捜査の途中、熱心に仕事していた二課の係長・吉武は上野署に遷されてしまった。

現場では定則の上着とワイシャツが、少しも破れも裂けてもおらずに見つかっている。

もし死体がそれらを着ていたならば、切れたり裂けたりしているはずだ。

だから上着とワイシャツは、死体とは別に運ばれたのである。

では、なぜ死体にワイシャツと上着を着せなかったのであろうか。

思い浮かぶのは、轢断列車が8分遅れで発車し、2分遅れで現場に来た事である。

発車の遅れは、死体轢断班に通知されていたと思う。
彼等は8分遅延で現場を通過すると考えていて、そのつもりで死体を置いてワイシャツと上着を着せようとした時、列車が来て慌てて逃げたのだと思う。

下山定則の死体が現場に運ばれる際、もし容器の中に入れられたとしたら、気になるのは日暮里駅の便所に書かれた「5.19下山缶」という落書きである。

缶に入れられ、缶の中に油が残っていたなら、死体にべっとり油が付いていたのも不思議ではない。

私はドラム缶ではなく、四角な箱の寝棺だったと思う。
そして右脇を下にした状態で置かれたので、死体は主に右脇に油が付いたのだ。

死体が軍用列車で運ばれ現場の線路上に降ろされた時、寝棺は列車と共に運び去られたのであろう。

次に「色の粉」であるが、恐らく上着とワイシャツは包装紙に包まれて運ばれ、色の粉は包装紙に付着していたのだろう。

いずれにしても、油も色粉も殺害現場にあった物と推定できる。

私はその場所は、発車駅の近くだったと考えたい。

死体を運んだ1201軍用列車がどこで編成されたかというと、もとは品川機関庫である。
それをいったん田端機関庫に引き込んで、貨物列車と連結して発車させるのだ。

田端機関庫に近い米軍施設を考えると、誰でも当時に膨大な土地を有した或る施設を頭に浮かべるだろう。

色の粉が青味がかった緑色が多かったのは、非常に興味深い。

占領当時の米軍兵器を見た人は、その色が濁った暗いグリーンだった事を思い出すだろう。

下山定則の殺害現場は、兵器の修理と補給の工場があった場所と考える。

付近の人々は、戦車や高射砲などが引込線から駅に積み出されるのを見た筈である。

ヌカ油についても、皮革や染料や研磨機用に必要だったはずだ。油の入った缶は豊富に置かれていただろう。

この兵器工場には、CICの分遣隊も置かれていたと推定される。

新谷波夫という人が、『週刊文春』に次のように書いている。

彼は大阪のCIC要員であったが、チーフのジョン田中・中尉という2世に連れられて東京に来た。
ジープを運転して小川町の三菱銀行の所で車を停めていると、黒塗りのビュイックが銀行の横から出て来た。

「あの車を尾けろと、田中が命令を下した。
私はビュイックの後を追って走り出した。

ビュイックは神田駅に出ると、同じあたりを2度ぐるぐると回った。

すると田中は、『もういい、もう一度国鉄本庁へ行け』と云った。
他の車にバトンタッチしたらしい。

国鉄本庁に戻ると、田中は5分ほど中に入っていたが、出てくると『急いで三越に行け』と云った。

私は三越の裏側から入り、田中を送り込むと駐車場に車を置いた。

20分くらい経つと、田中は大きな茶のハトロン封筒を持って出て来た。
それを私に渡して、『これを持って大阪に直ぐ帰れ。俺はまだ用事がある』と云い、再び三越の中に姿を消してしまった。

私は一瞬ぽかんとしたが、大阪に帰った。
封筒の中身は、国鉄の人員整理名簿であった。

私は下山事件に自分が関係しているとは、ゆめ思わなかった。」

これで分かる通り、それぞれの任務に横の連絡はない。
これらの班を動かしていたのは、中央の上級者であった。

下山事件では、各班は各地から召集されたであろう。
そして任務が終わった途端、早急に東京から散って行ったのだ。

工作班のうち最も重大だったのは、殺害現場の班と轢断現場の班である。

彼等の多くは、1年後に起こった朝鮮戦争で最も危険な戦線に投入されたのではあるまいか。

色の粉については、秋谷博士は鑑定をして検察庁に提出しているが、「これをしゃべると驚天動地の事実が判る」と云って口を閉ざしている。

下山定則を殺した者たちは、自殺に見せかけたが、捜査二課は他殺と断定した。

謀略側は他殺の場合、共産党の仕業にするつもりだったが、東京地検と二課は追及するにつれて米軍に向かってきた。

そこでGHQは捜査を中止させたのだ。

下山事件について、1952年7月頃に各労働組合に英文の怪文書が配られたが、こう書いてある。

「下山総裁が殺された地点の近くの地面には、大型の米軍軍靴の跡があった。

犯行現場付近の橋を、1台の米軍用トラックが通過した事を、数名の目撃者が警察に通報している。

また運輸省の某官吏は、下山氏が一米人と米国の自動車に乗っているのを、(国会)議事堂の脇の道路で見かけている。

これらの証言は、取り上げられなかった。」

下山定則が殺されたのは、労働者運動を後退させるための謀略であった。

下山総裁は、国鉄整理にあたってGHQの杜撰な原案にあくまでも反対した。
だから殺されたのである。

(2019年6月28日~7月3日に作成)


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