(『毒ガスと日本軍』吉見義明著から抜粋)
1931年9月18日に、関東軍は南満州鉄道(満鉄)の線路を爆破し、これを中国側の仕業だと言って戦争を始めた。
そして短期間に中国北東部(いわゆる満州)を占領した。
(これを満州事変という)
この戦争の中で、関東軍は毒ガスの使用を計画した。
32年1月25日に三宅光治・関東軍参謀長は、催涙弾とくさめ弾(嘔吐性ガス弾)を計2500発、支給するように陸軍省に要求した。
しかし陸軍省は、「毒ガス弾は国際的に禁じられている」と拒否した。
これに対し、海軍の陸戦隊はいちはやく催涙ガスを使用したらしい。
鶴尾・元海軍大佐は「昭和初年より陸戦隊に催涙筒を供給し、暴徒鎮圧に用いた」と回想している。
安井保門・元大佐も、「催涙弾およびクシャミ弾はある程度まで整備され、上海事変以後に陸戦と警備に用いた」と述べている。
1932年3月に傀儡国家「満州国」が建国されたが、関東軍は9月に満州国での作戦行動のため毒ガス弾の使用許可を、参謀本部に申請した。
これに対し真崎甚三郎・参謀次長は、「致死効力のあるものも催涙弾も使用してはならない」と返電した。
その理由として、「日本はこれまで国連で毒ガスに反対し、催涙弾も毒ガスだと主張してきた。満州事変そのものが国連で審議されている今、累をおよぼす恐れがある」と説いた。
関東軍はこれに不満で、再度の要請をしたらしい。
そこで甚三郎は、26日には「毒ガス弾の効果は少なくないが、しばらく自重しよう」とトーンダウンして説いた。
こうなると、もはや国際関係に影響がなければ使ってもいいとも受け取れる。
翌33年5月13日に、小磯・関東軍参謀長は再び使用を申請した。
今度は「満鉄委託経営の旅客列車が中国人ゲリラ襲われるのを防ぐため、催涙ガスを使う」という名目だった。
これに対し陸軍省は、使用を見合わせるよう打電した。
その理由は、「使用を始めれば、中国軍も毒ガスを使うかもしれない。華北の情勢が安定するまで待て」だった。
この段階で、陸軍省も毒ガス使用に容認的になったと分かる。
それから3年後の1936年2月に、日本国内で二・二六事件が起こった。
この鎮圧後に軍部の力が増すと、菱刈隆・関東軍司令官は「満鉄警備のため関東局警察官に催涙ガス筒を携行させたい」と8月17日に申請した。
そして陸軍省は「使用していい」と返電した。
こうして満州では催涙ガスが使われるようになった。
これが前提となって、37年7月に日中の全面戦争が始まると、満州では「討匪(ゲリラ討伐)」を名目として日本軍が住民に催涙ガスを使用する事となった。
一方、日本政府は1933年3月に国連から脱退するまで、国連の軍縮会議などで毒ガスの禁止を主張し続けた。
日本代表は、毒ガスだけではなく、細菌兵器や焼夷兵器の禁止も主張していた。
催涙ガスについては、「禁止になると国内での警察使用もできなくなる」としてアメリカが強硬に反対した。
日本の国連脱退の直後の1933年7月19日に、陸達(陸軍通達)第24号により、福岡県企救郡曾根村に「陸軍造兵廠火工廠・曾根派出所」が設置された。
これは、すでに稼働している広島県・大久野島の忠海製造所と共に、毒ガス製造の拠点となった。
1933年8月1日に、千葉県習志野に毒ガス戦の教育・訓練を行う「陸軍習志野学校」が創設された。
将来の対ソ戦を念頭に置いたものである。
学校長は、陸軍の全教育機関を統轄する「教育総監(陸軍大臣、参謀総長と並ぶ陸軍の最高位の官職)」の指揮下にあった。
習志野学校は、当初の人員は215名だったが、1941年には1371名まで増加している。
日中の全面戦争が始まると、この学校は中国各地に出張して、化学戦の教育を行った。
さらに中国の東北部では毒ガス戦の演習に力を注いだ。
1933年に、関東軍は毒ガスの人体実験を始めた。
関東軍が新設した細菌戦部隊(のちの731部隊)による、毒ガスの人体実験を視察した遠藤三郎・関東軍参謀は、11月16日の日記にこう書いている。
「第2班の毒ガス・毒液の試験、第1班の電気の試験に各2名づつ匪賊で実験した。
ホスゲンによる5分間のガス室試験の者は、肺炎を起こし重体だが生存している。
青酸15mg注射の者は、約20分で意識を失った。」
34年5月に習志野学校は、群馬県の相馬ヶ原演習場でイペリットとルイサイトの汚染地帯通過演習と撒毒演習を行った。
撒毒では、分隊長以下の全員がガスマスクを脱いで作業をしたが、1人が死亡、数人が重体となった。
汚染地帯の通過演習では、意図的に軽装備で通過させ、多数の兵士が被毒し視力が減退した。
9月にも天竜川の下流で毒ガスを雨下する実験を行った。
兵士と軍馬が被毒した結果、「雨下では糜爛性ガスが有効」と判明した。
35年1月からは、中国の東北部の極寒地で演習が始まった。
毒煙は対岸のソ連領まで達し、ソ連から関東軍に抗議があったという。
1936年2月26日に起きた軍事クーデター(二・二六事件)では、習志野学校の古林和一郎・大尉は鎮圧に毒ガスの使用を進言した。
和一郎は「反乱軍に対して催涙ガスや嘔吐性ガスを使えば、流血を避けられる」と説いた。
この意見は参謀部第2課(課長は石原莞爾・大佐)にとって魅力的に思えたようで、計画の立案を習志野学校に指示した。
同学校は気象観測を行い、3ヵ所から発煙する案を具申した。
反乱軍は旧式のガスマスク約150個を持っていたが、それを透過する嘔吐性ガス(あか剤)の使用が計画された。
しかし反乱軍が帰順・投降したので、毒ガスは使用寸前まで行きながら中止となった。
二・二六事件の毒ガス計画は、陸軍が危急の際は毒ガス使用を辞さない姿勢を持っていた事を示している。
(2019年11月17日に作成)