(『毒ガスと日本軍』吉見義明著から抜粋)
1937年7月7日に起こった盧溝橋事件をきっかけにして、日本は中国との全面戦争を始めた。
中国への増派が決定され、「中国の国民政府を断固として膺懲する」と近衛内閣は声明を出した。
中国には多くの部隊が派遣されたが、その中には毒ガス戦の部隊もいた。
こうした作戦のすべては、裕仁(昭和天皇)の命令で行われた。
載仁(閑院宮)・参謀総長は、同年7月28日に支那駐屯軍の司令官に「催涙ガスの使用の許可を指示しろ」と命じている。
これは平津地方(北平と天津の地域)の国民党軍を倒すという、裕仁の命令(臨参命・第64号)に基づいて行う作戦の中での指示である。
8月26日に編成された北支那方面軍は、各部隊が催涙ガス筒(みどり筒)を使用した。
上海派遣軍もみどり筒を使用しようとしたが、海軍が止めた。
華中で使用が確認される最も早い例は、10月16日以降にみどり筒が使われたケースである。
新たに派遣された第10軍は、催涙ガスは毒ガスではないとして、上陸直後から使った。
1937年11月7日に中支那方面軍が新たに編成され、その指揮下に上海派遣軍と第10軍が編入された。
第10軍は南京攻略を目前にした11月30日に、「南京攻略の意見書」を陸軍中央に送ったが、そこには第1案(南京急襲案)と第2案(徹底空爆案)があった。
第2案は、市街を徹底的に空爆するとし、イペリット弾(糜爛性の毒ガス弾)と焼夷弾を1週間にわたって使い、「南京市街を廃墟にする」というものだった。
第2案では「毒ガスの使用が極めて重要」と説き、「上海戦のような多大の犠牲を出してはならない」と強調していた。
日本軍は、上海を攻略するのに84日間もかかり、国内の弾薬庫が空になるほどの大量の砲弾を用い、死傷者は4万人以上に達していた。
国民党軍の戦闘力は予想以上に高く、味方の被害を少なくするために毒ガスを使った空爆が提案されたのだ。
第10軍は、すでに11月19日に、陸軍中央の命令を無視して南京に進軍していた。
毒ガス使用の意見書にも、第10軍の強引な作戦が現われている。
12月1日に、南京攻略を命ずる、裕仁の命令(大陸令・第8号)が発布された。
しかし毒ガスを使った空爆案はさすがに採用されなかった。
載仁・参謀総長は、中支那方面軍に対して「ガス筒の使用に関しては指示を待て」(大陸指・第9号)と命じた。
中国では、日本軍の野戦化学実験部が各地で情報を収集した。
各実験部は、1938年2月または39年3月に帰還している。
彼らの目的は、国民党軍の毒ガス戦の装備を調べて、日本軍が毒ガス戦を展開しても反撃されないかを確認する事だった。
国民党軍はドイツ人将校から軍事指導を受けており、その戦力を確かめなければ、日本軍は催涙ガスよりも強力な毒ガスの使用に踏み切れなかったのだ。
野戦化学実験部は37年9月に、「支那軍に対する、あか剤(嘔吐性・クシャミ性の毒ガス)の使用は極めて有効だ」と報告している。
国民党軍の4種のガスマスクで実験したところ、あか剤に対する「濾煙能力」が不十分だというのだ。
11月の報告でも、「国民党軍のガスマスクは旧式で数も少ないので、あか剤ときい剤(糜爛性の毒ガス)は極めて有効」と述べている。
別の報告では、「国民党軍はいまだ毒ガスを使った形跡はなく、使用したとしても小規模」と述べている。
38年2月の報告では、「堅固な陣地に対しては、毒ガスが最も良い」と述べている。
このような調査報告を経て、38年春から陸軍中央は、嘔吐性ガス(あか剤)の使用に踏み込んだ。
日本政府も日本軍も、中国の首都・南京を落としたら国民政府は降伏すると考えていた。
しかし国民政府は南京が落ちると首都を重慶に移し、武漢を仮首都として抗戦を続けた。
1938年1月に近衛内閣は、駐中国のドイツ大使・トラウトマンの講和仲介を拒否し、「国民政府を対手とせず」と声明を発した。
こうして日中戦争は長期戦に突入した。
日本軍は中国の各地に進攻していくが、まず38年4月7日に徐州攻略を裕仁(昭和天皇)が命令した(大陸命・第84号)。
こうして4月下旬から6月にかけて、徐州を中心にして日中の会戦が行われた(徐州会戦)。
さらに5月29日に「大陸命・第111号」によって、中支那派遣軍は安慶の攻略を命じられた。
そして波田支隊らは6月12日~13日に安慶城を占領した(安慶作戦)。
徐州攻略の裕仁命令があった直後の4月11日に、載仁・参謀総長は北支那方面軍に嘔吐性ガス(あか剤)の使用を許可する「大陸指・第110号」を発令した。
ここで注目すべきは、「つとめて煙に混用し、毒ガス使用の事実を秘匿し、その痕跡を残すな」と指示している事である。
これは、嘔吐性ガスの使用が国際法に違反するのを自覚していた事を示している。
この指示により、あか弾・あか剤が欧米諸国の目が届きにくい、山西省など奥地で使用されることになった。
中支那派遣軍の記録では、徐州と安慶の攻略で毒ガスを「局部的に之を使用する」とし、集中使用の方針が採られた。
徐州会戦と安慶作戦での毒ガスの使用は、実験的な使用だったが、その効果は予想以上だった。
徐州会戦に参加した金沢第9師団の「機密作戦日誌」には、「本会戦に特殊発煙弾を使用し得ることに決定」とある。
特殊発煙弾とは嘔吐性ガス筒(あか筒)のことだ。
5月18日には、集落への攻撃であか筒30本を使用し、毒ガスによる多数の患者が出たのを確認した。
また、毒ガスを吸って倒れ担架で後送される国民党軍兵士を、日本軍は「全部射殺」している。
苦しむ兵士を通常兵器で殺している事が注目される。
この戦闘に参加した山本武・伍長は、「突撃時に敵の抵抗がなかったのは、焼討ちもさることながら、毒ガスの効果による。あか筒はやむをえぬ作戦であろう」と記している。
このように日本軍の兵士は、容易に敵陣を落とせることから、毒ガスの使用を受け入れていった。
なおこの戦闘では、日本兵士の約10名がガスマスクの着け方が不確実だったので、毒ガスを吸い込んだ。約30分後に回復した。
嘔吐性ガスは、即効性のため「決勝ガス」と呼ばれていたが、一時的なものでガス吸入後は約30分で効力を失う。
毒ガスの使用は、安慶作戦では4例が明らかになっている。
第1軍司令部は、1938年5月3日に各部隊に「特種資材(毒ガス)の使用に伴う秘密保持に関する指示」と発令した。
この中では、毒ガス使用を隠蔽するために、次のことを命じている。
① 毒ガスの筒と収納箱の標記を、予め消すこと
② 使用後の毒ガス筒は、収集して持ち帰ること
③ 教育訓練では、印刷物を配布しないこと。教育内容を口外しないこと。
④ 毒ガスを使った時は、証拠を残さないために、敵を為し得る限り殲滅すること
⑤ 資材の運搬には、地元住民を使わないこと
⑥ 毒ガスを使ったという中国側の宣伝に対しては、毒ガスではなく煙だと反論すること
これを見ると、国際法違反を意識して事実の秘匿に集中していたと分かる。
日本の敗戦(降伏)後に、ガス筒を地中に埋めたのも、国際法違反を恐れたためであった。
(2019年11月27日に作成)