(『日中戦争全史・上巻』笠原十九司著から抜粋)
日本が満州事変を起こすと、満州では中国人の様々な義勇軍が生まれた。
1932年9月15日に、日本政府は満州国を正式に国家として承認する「日満議定書」に調印した。
これを認めない抗日運動が起きる中、9月15日深夜~16日未明にかけて、遼寧民衆自衛軍が撫順炭鉱の事務所を襲った。
撫順炭鉱は、世界有数の埋蔵量を誇る炭鉱で、日本の国策会社である「南満州鉄道会社(満鉄)」が経営していた。
日本の関東軍・守備隊と憲兵隊は、襲撃を防げず、日本側は死者5人、負傷者7人を出し、完全に面目を失った。
同16日の未明に、関東軍・守備隊と憲兵隊の首脳部は会議したが、守備隊の川上精一・隊長は「平頂山村が匪賊と通じている」と主張し、全村民の殺害と村の焼却を命じた。
その日の午前、守備隊と憲兵隊はトラックで平頂山村へ向かった。
関東軍・守備隊と憲兵隊は、村に到着すると、「匪賊の攻撃から住民を守る」と騙したり、銃剣で脅して、住民を村の南西の崖下に追い立てた。
村民3000人あまりが崖下に集められると、日本兵の機関銃が一斉に火を噴き、村民は折り重なって殺害された。
日本兵は死体の上を歩き、息のある者を見つけると銃剣で突き刺してとどめを刺した。
さらに村に火を放った。
翌17日に日本兵は、死体の山にガソリンを撒き、焼却した。
さらに数日後、ダイナマイトで崖を崩し、土砂で死体の山を覆い隠した。
これが『平頂山事件』である。
1970年になって、中国政府が地中にある遺骨を掘り起こし、遺骨をそのまま保存して「平頂山・惨案遺跡紀念館」が建てられた。
膨大な遺骨の群れは、虐殺を今なお生々しく想起させる。
(2020年5月10日に作成)