(『日中戦争全史・上巻』笠原十九司著から抜粋)
日本軍は満州事変を起こして、満州を軍事占領していき、1932年3月1日に『満州国の建国』を行った。
これに対し中国・国民政府の蒋介石・政権は、国際連盟に提訴をした。
1932年3月11日の国連の臨時総会では、「満州国の不承認」を決議し、その問題を調査・検討する「19人委員会」を設置した。
この委員会の報告と決議が、日本の国連脱退の引き金になる。
19人委員会は、委員長はイギリスのリットン卿が就き、5人の委員から成る「リットン調査団」の派遣が行われた。
リットン調査団は、32年2月~7月に日本と中国を訪れて、要人と会見したり現地調査をした。
10月2日に報告書が公表されたが、「満州事変は日本軍の自衛的・合法的な軍事行動ではない」とした。
満州国についても、「日本側が主張する民族独立運動によって建国したものではない」とした。
しかし今後については、「満州を、日本を中心とする列強国の共同管理下におくこと」を提案して、日本への理解を示した。
日本政府は、報告書が提案する満州の国際管理を拒否し、国連と対決する道を選んだ。
国連の会議において、日本代表の松岡洋右は報告書を激しく非難した。
19人委員会は、リットン報告書を採択し、満州国の不承認の勧告案を作成した。
1933年2月24日に国連総会は、この勧告案を票決に付したが、賛成42、反対1(日本)、棄権1(シャム、後のタイ)となった。
シャムの棄権は、本国からの指示が未着だったためだ。
日本代表の松岡洋右は、「日本はリットン報告とこの勧告書を受け入れない」と演説して、議場を出た。
東京朝日新聞(33年2月25日)は、「聯盟よさらば!遂に協力の方途尽く」「総会、勧告書を採択し、我が代表は堂々退場す」との見出しで、松岡洋右を英雄視する報道をした。
だが国連の記録フィルムを見ると、演説して虚勢をはって退場していく洋右を、各国代表は呆れ顔で見送っている。
票決での42対1という結果は、満州事変と満州国が国際社会から全く受け入れられなかった事を示している。
しかし日本政府は、満州国に固執し、3月27日に国連からの脱退を通告し、裕仁(昭和天皇)は国連脱退の詔書を下した。
こうして日本は、国際的な孤立をものともせずに暴走する国家となった。
日本に続いて、33年10月にドイツ(ナチス政権)が、37年12月にイタリア(ムッソリーニ政権)が、国連を脱退した。
当時の日本社会は、帰国した松岡洋右を凱旋将軍のごとく熱狂的に迎えた。
そのツケは、洋右が外務大臣になって「日独伊の軍事同盟」や「日ソの不可侵条約」という外交を展開し、ついには日米開戦となって現われる。
(2020年5月10日に作成)