(『日中戦争全史・上巻』笠原十九司著から抜粋)
若槻礼次郎・内閣(民政党)に代わった犬養毅・内閣(政友会)は、前内閣よりも格段に軍部に協力的だったが、それでも国連が非難している満州国の建国には反対した。
1932年3月11日の国連の臨時総会では、「満州国の不承認」を決議し、その問題を調査・検討する「19人委員会」を設置した。
この委員会の報告と決議が、日本の国連脱退の引き金になる。
1932年5月15日に、海軍の青年将校グループが「国家改造」を唱えて決起し、首相官邸を襲撃した。
彼らは、「話せば分かる」と言い聞かせようとした犬養毅を、「問答無用」と叫んで射殺した。
別のグループは、内大臣邸、警視庁、日銀、変電所を襲撃した。
これが『五・一五事件』である。
この事件後、右翼団体の活動はさらに高まり、「統帥権の干犯」を錦の御旗にした軍部の政治介入が強まって、議会政治・政党政治は終わった。
歴史の教訓として考える必要があるのは、軍部主導の強権政治の露払いをしたのが、犬養毅、鳩山一郎、森格といった政友会の幹部だった事だ。
ロンドン海軍軍縮条約(1930年)を調印・批准したのは、民政党の浜口雄幸・内閣で、同軍縮会議の首席全権をつとめたのが若槻礼次郎(民政党)だった。
この軍縮条約では、日本の補助艦の保有率について、日本が要求した対米英7割ではなく、アメリカが主張した6割9分7厘で決着した。
これについて海軍・軍令部長の加藤寛治らが、「この比率ではアメリカと戦えない」と猛烈な反対をした。
パーセントで表記すれば70%と69.7%であるから、わずか0.3%の違いである。
寛治らの主張は、言いがかりだった。
この条約反対の運動に、犬養毅、鳩山一郎、森格らの政友会幹部は、「民政党の浜口内閣を打倒するチャンスだ」と見て追随し、「浜口内閣は天皇の統帥権を干犯した」と攻撃した。
「軍備に関しては天皇の統帥権に属しており、軍が天皇を直接に輔弼して行うものだ。それを浜口内閣が行ったのは、統帥権を干犯した行為だ」と糾弾したのである。
政党である政友会が、議会政治を根本から否定する「統帥権の干犯」を持ち出したのだ。
これが軍部や右翼を勢いづけて、議会政治を葬る強力な凶器となった。
結果としては、ロンドン海軍軍縮条約を批准させた浜口雄幸・首相は、1930年11月14日に東京駅ホームで右翼の佐郷屋留雄に狙撃され、その傷により暫くして死亡した。
留雄は、浜口内閣が統帥権を干犯したと考えて、凶行におよんだ。
統帥権干犯の問題に火を付けた犬養毅も、「天皇の統帥権」を呼号した五・一五事件で暗殺される事になった。
(2020年5月10日に作成)