(『日中戦争全史・上巻』笠原十九司著から抜粋)
馬占山は、満州事変で張学良・政権が崩壊すると、1931年10月に中国・国民政府から黒竜江省・主席代理および東北辺防軍・黒竜江省司令官に任命された。
これに対し関東軍参謀の板垣征四郎が調略を行い、32年2月に寝返らせることに成功した。
そして占山は、満州国の黒竜江省長ならびに軍政部総長に任命された。
ところが馬占山は、その立場を利用して日本の武器・弾薬を大量に入手すると、「黒竜江省・抗日救国軍」を編成して、1932年4月に黒竜江省政府の樹立を宣言した。
こうして板垣征四郎の面目は丸つぶれとなった。
関東軍は大軍を投入して、馬占山の討伐を行った。
32年7月末に関東軍はハイラルを占領して、「馬占山を殺害した」と大々的に報じた。
ところが33年5月になると、ソ連領に逃亡していた馬占山は帰国し、国民政府の軍事委員に任命された。
さらに恥の上塗りをされた関東軍は、「帰国した馬占山はニセモノである」と発表した。
事実は、関東軍が殺害したのは馬占山軍・参議の韓家麟で、それを占山と間違えたのである。
関東軍の発表では、1932年9月の時点で「匪賊」の数は21万人に達した。
関東軍は、抗日ゲリラを匪賊と呼んだ。そして大規模な討伐作戦を行った。
この作戦は、抗日義勇軍を各個撃破していくものだった。
こうした抗日ゲリラの討伐をうたった軍歌「討匪行」が、日本では大ヒットした。
「討匪行」は、抗日ゲリラを匪賊と呼んで凶悪な印象を与えつつ、討伐の苦労を歌ったものである。
だが現地の中国人からすれば、日本人こそが侵略者・略奪者であり匪賊だった。
関東軍の討伐作戦で、匪賊(抗日義勇軍)は1935年1月までにほとんどが掃討された。
これに代わって抗日戦争の主力となったのが、中国共産党の「抗日遊撃隊」である。
1932年以降、中国共産党・満州省委員会は、抗日遊撃隊の組織化を指示した。
33年1月に党中央から満州省委員会へ、「抗日の民族統一戦線」を指示する「1月書簡」が送られた。
そして農民・農村のとり込みを行った。
共産党の人民革命軍は、農村や山村に根拠地を造っていった。
1936年1月に、東北人民革命軍は「東北抗日連軍」と改称し、第1軍から第11軍までの大勢力となった。
この軍勢には、満州にいる朝鮮人も参加した。
後に北朝鮮の指導者となる金日成も、この頃は満州で抗日パルチザンを率いていた。
36~37年にかけて、東北抗日連軍の総兵力は3万を数えた。
この中国共産党軍の躍進は、日本の満州国にとって深刻な脅威だった。
日本人は共産党の抗日軍を「共産匪」「共匪」と呼んで恐れた。
1935年9月に、後に首相となる東条英機が、関東軍・憲兵隊司令官および関東局・警務部長に就任した。
英機はすぐに、満州の共産党と親ソの人々の弾圧を命じた。
36年6月に大規模な検挙をし、約3千人を逮捕した。
英機はこの功績で37年3月に関東軍・参謀長となり、治安粛清作戦を指揮した。
関東軍の治安粛清作戦には、「保甲制度」と「匪民分離」もあった。
「保甲制度」は、戸口調査を行い、10戸を1牌とし、10牌を1甲、10甲を1保と定めて、住民を登録した。
牌の住民には厳しい連座制を負わせて、住民が抗日運動に参加しないよう相互に監視させた。
「匪民分離」は、抗日ゲリラの拠点だった村落を焼き払い、住民を強制的に移住させ、ゲリラと民衆を分離した。
移住先の集団部落では、周囲を鉄条網や壕で囲み、四隅に見張り塔と砲台を置いた。
部落の住民には証明書を交付し、それを所持しない者が出入りしようとすると即決で処刑した。
抗日ゲリラと農民との連絡が絶たれた結果、抗日ゲリラは弱体化した。
(2020年5月10&16日に作成)