タイトル日本から送られた満州開拓の移民たち

(『日中戦争全史・上巻』笠原十九司著から抜粋)

関東軍(日本の満州駐留軍)は、満州で抗日ゲリラを討伐する一方で、満州に日本から移民を送り込む計画に着手した。

満州国の成立後、吉林軍の一部が反旗を翻すと、その討伐軍として「吉林剿匪軍」が編成され、そのトップ(軍事教官)に東宮鉄男が任命された。

石原莞爾は、東宮鉄男を奉天の関東軍司令部に呼び寄せ、「農業に従事しながら治安維持とソ連に対する辺境防衛にあたる屯田兵制度」の研究を命じた。

ちなみに東宮鉄男は、張作霖爆殺の時に爆弾のスイッチを押した実行犯である。

東宮鉄男は、在郷軍人を使った屯墾軍を提案した。

屯墾軍は、後に屯墾隊と称したが、「駐屯して開墾に従事する部隊」の意味である。

この構想が、満州に武装移民団を派遣する国策として、実施された。

「行け満蒙の新天地」「満州で一旗揚げよ」とマスコミが扇動しつつ、在郷軍人会が主体となって『満州試験移民』の募集が行われた。

移民候補者の資格は、35歳以下の在郷軍人で、農業に従事中の者とした。

在郷軍人とは、徴兵検査に合格して2年の服役をした後に、予備役・後備役・退役軍人となった者で、必要に応じて召集され戦場に送られる。

陸軍省の指導下で、1910年に全国組織として「帝国在郷軍人会」が創設された。

これを発達させたのが、陸軍大臣や首相になった田中義一である。

1930年代に入ると、在郷軍人会は天皇制ファシズム体制の大きな力となった。

在郷軍人の492人が、第一次・武装移民団として、1932年10月に吉林省・佳木斯に送られた。

到着してすぐに抗日ゲリラの襲撃を受け、戦闘を体験した。

移民団の入植地は、東宮鉄男が吉林剿匪軍を率いて、武力をちらつかせて強制的に中国住民の家と土地を買収した。

武装移民団は、入植した永豊鎮に弥栄(いやさか)神社を建立(33年10月)し、村名も弥栄村にした。

「弥栄」とは、天皇の国がいよいよ栄えるという意味である。

続いて第二次の武装移民団455人が、1933年7月に永豊鎮の南隣りの七虎力に入植し、千振村と名乗った。

千振とは、「千早振る」という神にかかる枕詞を使ったものである。

第三次の武装移民団は34年10月に、第四次は35年9月に入植した。

「満州開拓移民」という言葉は、日本人が未墾の原野を開拓したイメージを抱かせるが、満州侵略の実態をごまかすためのものである。

在郷軍人から成る部隊が入植し、中国農民の農地や村落を関東軍の指導下で強制的に買収、強奪して、日本人の村落にしたのだ。

満州への武装移民団の入植は、侵略者の典型であり、それを生んだ満州事変は侵略戦争であった。

1934年に入ると、関東軍は入植地を得ようと、依蘭・樺川・勃利の3県の土地買収を強制的に行った。

買収の実務は「東亜勧業・株式会社」(満鉄の傍系会社)が行った。

土地買収の価格は非常に安く、地券を出し渋る農民には、兵隊が出動して家を破壊しつつ地券を探すなどした。

土地買収と同時に、関東軍は民間の武器を回収した。

中国農村は伝統的に自衛団があったが、抗日ゲリラに手を焼いた関東軍は武器を取り上げようとした。

土地を奪われ、武器まで奪われようとした農民たちは、依蘭県・土竜山の自衛団団長の謝文東をリーダーにして、1934年3月に決起した。

たちまち各地の農民が武器を手に参集し、6~7千人の大群となった。

千振村は自衛団の襲撃をうけ、鉄道駅のある湖南営まで避難した。

その湖南営も、謝文東軍に襲撃された。

慌てた関東軍は、機関銃や山砲を持たせた部隊を送り、飛行機も投入して爆撃した。

だが謝文東軍は潰滅せず、文東はその後、共産党の指導下で組織された東北抗日連軍に加わった。

謝文東は1939年3月に関東軍に降伏した。

抗日ゲリラがほぼ壊滅すると、日本人の満州移民は、武装移民から「分村移民」へと変わった。

「分村移民」とは、日本の村を母村として、母村から集団移民を送り出し、満州の入植地にて母村と同じ村名で暮らすものである。

1936年に広田弘毅・内閣は、20年間で100万戸を移民として送り出す事を、国策として決定した。

1945年の日本の敗戦時に、満州移民は10.6万戸で31.8万人に上っていた。

日本が降伏すると、この人々は日本に引き揚げたが、戦死・自決・病死・餓死・凍死などで7万8500人が帰国できずに死亡した。

日本がアジア太平洋戦争に突入した後は、満州移民に成人男性を確保できなくなり、15~19歳の少年を使った「満蒙開拓の青少年義勇軍」が送り出される事になった。

戦争末期には、この青少年義勇軍が移民の主力となった。

青少年義勇軍の制度は、1938年に発足し、全国の学校で募集した団員たちは茨木県の内原訓練所で3ヵ月の訓練を受けた。

その後に現地の訓練所でさらに3年、農業と軍事の訓練を受け、それを終えるとソ連との国境などに入植した。

青少年義勇軍は、ソ連軍に備えた兵力であった。

内原訓練所の名簿によれば、満州に8万6530人が送られたが、そのうち2万4200人が死亡した。

ソ連は、1945年8月8日に日本に宣戦布告し、翌9日に満州へ侵攻した。

関東軍と満州国の日本人幹部たちは、いち早く朝鮮や日本に逃げ去っていた。

そのため、置き去りにされた膨大な一般日本人が、ソ連軍の侵攻で死亡した。

捕虜となってシベリアに送られた者も多い。

引き揚げできない状況の中、やむを得ずに中国人と結婚して生き延びた残留婦人は、4500人もいる。

(2020年5月10&16日に作成)

(『満州帝国史』太田尚樹著から抜粋)

満州への日本人の開拓移民は、23~27万人ほどだった。

日本政府の拓務省による移民計画は、1932年8月に閣議決定され、翌月から移民の募集が始まった。

第一次・移民の募集資格は、農業に従事する在郷軍人に限られた。
彼らは「武装移民」とも呼ばれた。

石原莞爾の主導で、1936年5月に「満州農業移民・百万戸計画案」が、関東軍から提出された。

これが8月に広田弘毅・内閣で閣議決定され、農村の過剰人口が送り込まれる事になった。

以後、一般開拓団と義勇隊開拓団が渡満していったが、後者の入植地はソ連国境の付近であった。

義勇隊開拓団は、ソ連に対する防御兵として期待されていた。

日本人が送り込まれた入植地は、荒れ地の開拓ではなく、多くは満州人の農地が強制的に買い上げられたものだった。

買い上げ価格は、民間価格の10分の1に過ぎなかった。

開拓農民を最も多く送ったのは長野県で、次が石原莞爾の故郷・山形県だ。

熊本・兵庫・高知からの満州移民は、被差別部落から相当数が送られた事実がある。

被差別部落の人々を満州へ駆り立てた宣伝文句は、「満州に住めば、差別は解消する」だった。

だが、彼らの多くはソ連国境に送り込まれたため、日本の敗戦間際にソ連軍が進撃してくると、まともに受けて全滅となった。

日本に絶望して満州に渡ったのに、そこも地獄だったのである。

満州での農業は、太平洋戦争が始まると、戦時用の農産物の増産に転じた。

農産物に関する統計資料が1941年以後に無いのは、戦略的な観点から極秘扱いにされたためという。

満州国では、最後まで「国籍法」が制定されなかった。

入植した日本人は、満州国に住んでいても日本国籍のままであり、日本の兵役義務が適用された。

満州国に国籍法をつくる事は、何度か提起されたが、日本国籍との二重国籍になるとか、流入してきた漢民族の労働者にも満州国籍を与えるのかといった問題があって、実現しなかった。

近代国家に不可欠な国籍法が、満州国には無くて、「五族が同じ満州人」という法的な根拠は無かったのである。

(2020年10月6日に加筆)

(『毎日新聞2014年2月10日』から抜粋)

約27万人が満州に送り出された(国策の)「満蒙開拓団」だが、市民グループの調査で、これまで知られていなかった沖縄県や東京都から行った開拓団の実態が明らかにされた。

沖縄県の「沖縄女性史を考える会」は、沖縄から行った開拓移民2603人の歴史を、17年かけて本にまとめた。

調査の結果、引き揚げ中などに亡くなった者は922人、徴兵されて戦死した者は58人、残留者は79人いたと判明した。

この調査は、県庁の資料はアメリカ軍との沖縄戦争で焼失したため、新聞の復刻版や引き揚げ関連の資料に出てくる氏名を見て、電話帳を使って連絡を取ることからスタートした。

そして証言を集めて、検証を重ねた。

「沖縄女性史を考える会」の調査は、788ページの大作「沖縄と『満洲』」(明石書店)として2013年夏に出版された。

一方、東京都大田区の「東京の満蒙開拓団を知る会」は、東京都から行った1万1111人の全体像を明らかにした。

市民グループが、都の公文書館や図書館を回って資料を集め、関係者からの聞き取りもした。

その結果、戦時中に米軍の空襲で焼け出された人達までが、満州に開拓団として送られたと分かった。

こちらも調査の成果を、2012年9月に「東京満蒙開拓団」として出版した。

メンバーたちは調査を続けており、全10冊の「東京満洲農業移民資料」の発行を目指している。

新潟県に住む高橋健男も、2013年12月に「渡満とは何だったのか 東京都満州開拓団の記録」を出版した。

こちらは東京都が戦後に元開拓団員から聞き取りし、新潟県庁に送った資料を発見して、それを調査したものである。

(2022年10月3日に加筆)

(『週刊文春2023年11月9日号 出口治明の記事』から抜粋)

日本政府は、満洲を占領して「満洲国」を創ったが、そこは中国人や朝鮮人がすでに暮らしていた。

日本政府は満洲を「資源の供給地」と位置づけて、日本から移民させる政策を打ち出した。

1936年に広田弘毅・内閣は、関東軍の案を採用して、「二十ヵ年で百万戸の送出計画」を定めた。

日本の零細農家は200万戸で、その半分を満洲に送ろうという計画である。

当時の満洲の人口は3400万人だった。

1937年に「満洲拓殖公社」が作られたが、これは満洲国と、三井、三菱、住友などの財閥が出資した公社である。

この公社は、1941年までに2000万ヘクタールの土地を強制的に買収した。
満洲国の土地の1割以上にあたる。

だいたいは時価の2~3割で無理矢理に買った。

関東軍は1934年から、「5~25円の荒地は2~10円で、百円の熟地は最高20円で買う」との方針を立てていた。

無法な買収で検察庁が摘発しても、「国策の開拓だから暴行・脅迫はやむをえない。これを犯罪とするのは非常識だ」 との横槍が、日系の官吏から入った。

この事は満洲国の最高検察庁の記録に残っている。

1937年に日中戦争が始まると、成人は兵隊にとられたので、38年1月から 「満蒙開拓の青少年義勇軍」の募集が日本全国で始まった。

16~19歳の少年がターゲットとなった。

日本の敗戦までに9万人ほどが満州に渡り、日本の花嫁訓練所などを出た女性が花嫁として送られた。

1945年8月の敗戦の時、満洲にいる民間日本人は155万人。
そのうち開拓移民は27万人いた。

健康な男性は根こそぎ動員されていたので、入植地に残っていたのはほとんどが子供、老人、女性だった。

1945年8月9日に満洲に160万人のソ連軍が攻めてきた。

残された開拓民たちに悲惨な目にあい、死者は8万人といわれる。

さらに満洲には、100万人を超える朝鮮人が暮らしていた。

朝鮮総督府が、鮮満拓殖株式会社などを通して、朝鮮人を移住させる政策をとっていたからだ。

満洲の水稲の9割が朝鮮人の農民によって生産されたと言われている。

僕(出口治明)の祖父も満洲に行き、敗戦で抑留されてから日本に帰ってきた。

帰国してから満洲での事は一言も話さなかった。

(2024年4月25日に加筆)


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