(『男装の麗人・川島芳子伝』上坂冬子著から抜粋)
清王朝の皇族である善耆。
その娘である顕㺭は、政略により川島浪速の養女となって、1914年に日本に来た。
そして川島芳子と名付けられた。
1916年に、芳子の家庭教師として赤羽まつ江がつけられた。
まつ江は、川島浪速と同じ信州・松本の出身で、家庭教師になった時27歳だった。
7歳で単身海を渡ってきた芳子に対し、まつ江は愛を注いだ数少ない1人であったのだろう。
芳子は後に獄中からの手紙で、「私が死んで心から歎いて下さるのは、赤羽のお母様だろう」と書いている。
川島芳子は来日すると、小学校に入学したが、1年下のクラスだった劇作家の田中澄江はこう書いている。
「芳子は、私たちが『先生』と呼んでいた実習生を、『おい、君』と呼んでいた。
川島邸からいつも書生が付いて来てきたが、その名も呼び捨てにしていた。
満州浪人の大将といわれていた川島浪速の家は、広い家で女中がいたが、芳子はやはり『おい』と命令していた。」
他にも、「キャッチボールに興じる男子が落としたボールを拾おうとすると、芳子がさっと取って別の方角に投げた」とある。
芳子自身は手記で当時のことを、「リボンが大変に好きで沢山蒐めてました。お手玉やおはじきを好むお姫様でした」と述べている。
日舞、琴、茶道、乗馬などを習い始めたのも、この頃らしい。
ところで芳子の養父である川島浪速は、中国から日本に帰国後、着々と自らの陣営を固めていた。
当時、彼の屋敷に出入りしていた者を並べると、松本菊熊、若月太郎、伊達順之助、1916年に張作霖の暗殺を企て奉天で爆死した三村豊、のちに蒙古義勇軍に加わった入江種矩、秋枝勘二がいる。
村井修は、中国大陸を旅行中に川島浪速と知り合い、浪速の秘書となった。
秘書になったのは、善耆が北京を脱出して旅順に行った頃だろう。
その後は半生を浪速に仕えた。
村井修の妻である八重は、こう語る。
「私が村井と結婚した頃は、川島浪速の全盛期でした。
一時期は、大木遠吉・伯爵の家のはなれを事務所としてましたが、大木伯爵は伊達順之助の親戚に当ります。」
中国では当時、清王朝の乗っ取りに袁世凱が動き、それを阻むために清王朝の旧臣は宗社党を結成して、清王朝の復辟を企んだ。
これに呼応して日本側も宗社党を組織し、川島浪速はその総帥となった。
1915年1月に日本政府が中国政府に出した『21ヵ条の要求』は、その強引な態度に中国の人々は怒ったが、袁世凱はこれを受諾した。
一説によると、21ヵ条の承認を交換条件に、世凱は自らの帝政を承認するよう日本政府に迫ったという。
かくて15年12月に、世凱は皇帝に就き、年号は洪憲と改められた。
だが日本、イギリス、ロシア、フランス、イタリアがこれに反対し、翌年に世凱の帝政は取り消しの宣言がされた。
この頃、すなわち1915年6月に、タサとバタという2人の蒙古兵が秘かに宮里好麿と共に来日した。
2人は蒙古のパプチャップ将軍の部下で、清王朝の復辟と満蒙王国の建設に必要な武器弾薬の援助を求めるのが目的だった。
パプチャップは、日露戦争の時に日本軍の橋口勇馬・少佐の下で戦った経歴があった。
川島浪速は、同志たちと討議の末に、パプチャップの支援を決めた。
後にパプチャップの次男カンジュルジャップと川島芳子は結婚するのだが、芳子はこの時やっと8歳である。
川島浪速とその仲間たちの構想は、旧清王朝の宣統帝・溥儀を担いで、満蒙に王国をつくるのが最終目的だった。
こうして浪速は、再び中国大陸に渡った。
これは彼にとって『第二次・満蒙独立計画』である。
浪速らは、善耆(川島芳子の父で清朝皇族)が満州に持つ土地や金鉱や石炭鉱山を担保にして、1916年3月に大倉喜八郎から宗社党の軍資金として100万円を借りた。
日本陸軍・参謀本部も、小磯国昭・少佐を派遣して、宗社党の援助をさせた。
このあたりの事情について憲立(善耆の息子、川島芳子の兄)は、「間島に東洋のスイスともいうべき中立の独立国をつくって、大倉をその王とする条件で資金を借入したはずです。その証文は今も大倉家にあるのではないか」と言う。
パプチャップへの武器輸送は、三井物産の貨物列車が使われた。
やがて日本側の宗社党も到着したが、その中に20歳の善耆の息子・金璧東もいた。
こうして日中の宗社党と、パプチャップの蒙古兵が蜂起する態勢を整えた時、袁世凱が急死した。
1916年6月であった。
袁世凱の死で、討袁の目標は無意味となり、反袁で動いてきた大隈重信・内閣は方針を一変して、満蒙独立計画を阻止する側に回った。
関東都督府や日本領事館は川島一派を抑制にかかり、善耆やパプチャップも立ちすくむ事になった。
憲立によると、川島浪速はここで関東軍に向かって、「肅親王家(善耆の家)が全財産を賭けて挙兵したことの賠償をせよ」と要求し、軍から70万円が支払われたという。
パプチャップは蒙古への帰路で、馬賊の流れ弾に当たって死亡した。
第二次・満蒙独立計画に失敗した川島浪速は、日本に戻って、油田の発掘をしたり、長野県・黒姫山の所有地から炭酸水が出るのに目をつけ「乙女サイダー」として売り出したりした。
その資金には、先の賠償金が充てられたが、いずれも失敗に終わった。
憲立によると、ある時に浪速は芳子を連れて、旅順で暮す善耆を訪れた。
芳子はすっかり日本人としての生活が身につき、和服姿だったが、夜になるとシミーズ姿で浪速にまたがって揉み療治を始めた。
浪速は「なかなか上手い」と苦笑していたが、それを見た善耆は眉をひそめ、芳子の実母(善耆の第4側妃)は泣きながら「芳子を取り戻したい」と訴えた。
しかし善耆は、「あれは清朝の復辟の犠牲になった」と言って、訴えを聞こうとしなかった。
1917年7月に、安徽都督の張勲が、突然に宣統帝・溥儀の復辟を行った。
これは12日間で消滅したが、浪速の心は穏やかでなかったろう。
やがて浪速は、パプチャップの遺児のうち、3人の息子を引き取って、日本の陸軍士官学校に進学させた。
ちなみに長男のノンナイジャップは、陸士の卒業後に頭山満の指示で外蒙古に行ったが、まもなく消息不明となり、「満州事変後に暗殺された」との噂がある。
次男のカンジュルジャップは、後に芳子と結婚したが、3年足らずで離婚し、満州国で警察庁長を務めた。
三男のジョンジュルジャップは、後に満鉄に入社した。
さて。
夢破れた川島浪速は、1921年に東京を引き払って、故郷・松本の浅間温泉に移住した。
これに伴って、芳子も転校し、松本高女に編入した。
当時の芳子の同級生によると、芳子は馬に乗って通学したりし、授業をしょっちゅうサボっていた。
学籍簿に芳子の記録は皆無だが、これは聴講生という立場だったせいである。
この頃の話として、ヌード写真事件がある。
旧制松本高校の60年祭として出版された本に、1回生の藤田清太郎が「川島芳子嬢のヌード」という一文を寄せている。
ある日、芳子は小星文子と2人で、藤田清太郎の下宿を訪ねてきた。
その数日後に、芳子は単独で彼の下宿にやって来て、「ぜひ写真を撮っていただきたくて」とヌード撮影を自ら申し出た。
同室の学生として百瀬次重もいたが、清太郎と次重があっけにとられる前で芳子は上半身裸になり、男のように腕組みしてポーズを取った。
清太郎はこう説明している。
「両親を早く亡くした私は、当時学費を工面するのに四苦八苦していました。
それを見かねた芳子さんが『横浜に行けばヌード写真を高く買う店があるらしい。私の写真で学費の足しにしなさい』と身を挺してくれたのです。
彼女の厚意に甘えた自分が後ろめたかったが、今となってはあの人の義侠心を世に伝えるべきと思ってます。」
芳子のヌード写真といえば、昭和56年3月26日号の週刊文春にも掲載されている。
こちらは日中戦争の時期のものだ。
芳子の実妹の黙玉は、これを知っており、次のように語った。
「残念ながら、間違いなく姉の芳子です。
姿もさることながら、背景の風呂場が北京の芳子の家にそっくりですから。
あのころ洋風の風呂場にすのこを敷いていた家は、他にありません。」
1922年2月17日に、川島芳子の実父・善耆が旅順で死去した。
かつて清朝の復辟に力を入れていた大隈重信も、それに先立つ1月に死去した。
さらに芳子の実母の第4側妃も、善耆の1ヵ月前に37歳で死去した。
善耆の息子の憲東によると、当時の彼女は11人目を妊娠しており、夫の看病に専念するため堕胎薬を飲んだのが死因につながったという。
それからしばらくして、芳子は松本高女を退学した。
校長が替わって土屋文明になり、文明が芳子を排斥したと伝えられている。
当時の女学生の服装は筒袖に紺の袴だったが、芳子の写真はセーラー服である。
同級生によると、芳子は自分のことを「僕」と言っていた。
学校側は「芳子の行動は秩序を乱す」として、退学させたという。
川島浪速の伝記では、善耆の死後、遺言によって肅親王家の家長代行を任されたという。
これを憲立は真っ向から否定し、浪速は善耆の正妃から後見人としての委任状を取りつけたと言う。
とにかく浪速は、善耆の遺児たちの後見人となり、進学をさせた。
浅間温泉の川島浪速宅は、敷地142坪、建坪42坪の木造家屋だった。
芳子が髪を切り男装に踏み切ったのは、この家での出来事だった。
芳子の手記には「大正13年(1924年)10月6日の夜9時45分に、永遠に女を清算した」とある。
彼女は頭を五分刈りにした。
原田まつしまが、息子を連れて川島家を訪ねたのは、それから25日後だったが、感想をこう書いている。
「私も驚いたが、子供も驚いてまじまじと眺めている。
すると芳子は子供に向かって『今日からお兄ちゃんと言うのだよ』と宣言した。」
それにしても、芳子はなぜ髪を切ったのだろうか。
10月6日の夜9時45分に何があったのか。
まず考えられるのは、養父・川島浪速に純潔を奪われた事である。
芳子の実兄である憲立は、「芳子が川島浪速に執拗に追いまわされていると、泣いて私に訴えた事がある」と語る。
そして次のエピソードを披瀝した。
善耆の死後に、浪速はその遺産管理などで芳子を伴って何度も旅順に来たが、その時に憲立に向かってこう述べた。
「肅親王(善耆)は仁者であった。自分は勇者である。
この2人の血を結合させたら、仁勇兼備の子が誕生するだろう。」
つまり、暗に芳子と肉体関係をもつ事に賛同を求めたのだ。
芳子は17歳、浪速は59歳だから、42歳の年齢差をものともしなかったことになる。
芳子の実弟の憲章にも聞いたところ、こう証言した。
「信州・松本の川島邸で暮らしていた時、芳子の自殺未遂に居合わせた。
当時、芳子と浪速は寝室を共にしており、ときどき芳子が大声で叫びながら飛び出して、女中部屋に駆け込んでいた。
ある日、大きな音がして家中が騒然とした。
子供心にも芳子の自殺未遂と理解できた。」
当時の憲章は10歳である。
憲立は自殺未遂について、「あれは芳子と岩田愛之助との感情のもつれです」と言う。
岩田愛之助は、外務省政務局長・阿部守太郎を刺殺した事件で投獄された人物である。
愛之助が芳子に求婚したところ、芳子は川島浪速との板挟みを仄めかして「死にたい」と言った。
愛之助が「それならば死ぬか」とピストルを渡すと、芳子は左胸に向けて引き金を引いた。
「まさか撃つとは思わなかった」と愛之助が述べたのを、憲立は記憶している。
一方で、芳子と浪速の肉体関係を否定する者もいる。
1人は原田伴彦で、「あまりに異常な見方で、兄の憲立には何か意図があるのではないか」と言う。
もう1人は松沢勘二で、彼は若くして浪速に師事したが、「あれは髪の毛を切り損なったのです。芳子からそう聞いた」と言う。
断髪をした芳子は、その後に上海に向かった。
憲立は語る。
「坊主頭の芳子が、突然に上海の私の所に訪ねてきた時は、まったく唖然としました。」
後を追うように川島浪速から、「思いを断って芳子を返す」との手紙が憲立に届いた。
7歳で日本に行き、10年を過ごした芳子は、満足に中国語も話せなかった。
憲立は坊主頭の芳子を見ながら、途方に暮れた。
その年のうちに浪速は、芳子の姪にあたる廉子を新たに養女として松本に迎えた。
廉子は、のちに正式に川島家に入籍した。
憲立はこう解説する。
「芳子の反乱で、浪速は衝撃を受けたでしょう。
芳子を通じて肅親王家と絆を保っていたから、別な絆が必要となった。
そこで廉子を貰ったのです。
なにしろ肅親王家は、浪速にとって金蔓でしたから。」
「金蔓」とは、大連市の小盗児市場を指している。
浪速は、大連市にある露店市場に目をつけたが、そこは映画館や飲食店が並び、盗品も売買されていて、小盗児市場と名付けられていた。
大連市は、ポーツマス条約によってロシアの持つ租借権を日本が受け継いだが、1915年の「対支21ヵ条の要求」で正式に99年間の租借が認められ、市場は市有地となった。
浪速は同市場を借用して、管理人となり、露天商人たちから場所代を徴収し、肅親王家の生活費に充てたのである。
浪速が容易に借用できたのは、日本軍の口利きがあったという説が強い。
この件は、浪速の才覚で肅親王家の財政を支えたという面もある。
(2020年5月16日に作成)