(『男装の麗人・川島芳子伝』上坂冬子著から抜粋)
1924年11月5日に、清朝の廃帝である溥儀の居る紫禁城が、馮玉祥の率いる軍に包囲された。
午後4時に、溥儀は妃の婉容と共に脱出し、ついに名実ともに一市民となった。
この事態を見た張作霖は、溥儀を守るべく兵を率いて馮玉祥に対抗した。
溥儀は日本公使館に逃げ込み、芳沢謙吉・公使は庇護にあたった。
だが3ヵ月後に馮玉祥は、溥儀の引き渡しを要求。
25年2月13日に溥儀は天津に脱出した。
天津駅では総領事の吉田茂(のちの首相)が待っていた。
そのあとに妃の婉容も到着し、夫妻は天津の日本租界に居住することになった。
住居は清皇室・駐津弁事処と名付けられた。
溥儀は6年余りを天津で過ごすことになる。
一方、袁世凱が亡くなった後、張作霖は東3省の独立を宣言し、奉天将軍を名乗った。
さらに南京にいる中国・国民党は、蒋介石を総司令官にして北伐を計画し始めた。
日本では田中義一・政権が、北伐の阻止に動いた。
すなわち義一は外相を兼任して、1927年6月27日に森恪・政務次官らと「東方会議」を招集した。
東方会議では、芳沢謙吉・公使、吉田茂・奉天総領事、児玉秀雄・関東庁長官、武藤信義・関東軍司令官らと共に会議を重ねて、「対支政策の綱領」を発表した。
この綱領は、満蒙を中国から分離させる政策を打ち出したもので、「日本帝国の権利や在留邦人が侵害される時は、自衛のため武力行使も辞さない」という主旨だった。
1928年4月に蒋介石は、北伐を開始した。
日本軍は済南でこれを迎え撃った。
北伐軍は済南を避けて通り、張作霖の支配下にある北京に迫った。
もし張作霖が満州に逃げ込み、北伐軍が追撃してくれば、満州における日本の権益が危うくなる。
そこで田中義一・内閣は、28年5月に「戦乱が満州に及ぶ時は、日本は適当な措置をとる」と、蒋介石と張作霖に通告した。
介石はこの通告を、万里の長城の南における権益は認めたと解釈し、「(満州に逃げる)張作霖を追撃しない」と回答した。
そして介石に敗れた作霖は、奉天に引き上げることになった。
日本の関東軍は、これらの事態を見つつ、出兵の勅命を待った。
だが勅命が出ないので、張作霖の爆殺を企み、それを導火線にして一気に全満州を制圧しようと考えた。
かくて1928年6月4日に、奉天に迫った張作霖の乗る列車は爆破された。
作霖は重傷のまま奉天城内の自邸に担ぎ込まれ、4時間後に息を引き取ったとされる。
だが「張作霖の爆殺事件」後も勅命は下らず、関東軍の満州制圧への謀略は失敗に終わった。
それにしてもこの爆殺は、人々にとって寝耳に水の衝撃であったろう。
衆院議員の町野武馬や陸軍大佐・本庄繁は、張作霖の軍事顧問だった。
(武馬は1925~28年、繁は21~24年)
田中義一・首相や白川義則・陸相らは、作霖を擁立して満蒙問題を解決する方針を採っていた。
吉田茂・奉天総領事らは、作霖の排斥論を持っていたが、殺害を考えたのは関東軍のみであろう。
関東軍は、アヘン中毒の中国人3人を買収して、彼らを犯人に仕立てる工作をし、爆殺現場で2人を殺害した。
陸軍省は事件について、「怪しい支那人が満鉄線の堤に上がろうとしたので、問い質したところ、爆弾を投擲せんとしたので、わが兵は2名を刺殺したが、1名は逃亡した。」と発表している。
その逃亡した1名が、張作霖の長男である張学良の所へ駆けつけて、一部始終を明らかにした。
以後の学良が、抗日の態度を固め、蒋介石と結んだのはよく知られている通りである。
(2020年5月16日に作成)