(『男装の麗人・川島芳子伝』上坂冬子著から抜粋)
川島芳子は、養父の川島浪速の家を飛び出し、坊主頭になって実兄の憲立を訪ねた。
髪が元通りに伸びた頃、芳子はだしぬけに結婚の意志を憲立に伝えた。
憲立は述懐する。
「芳子が『カンジュルジャップが絶え間なく手紙を寄越すし、自分も彼を嫌いではないから、結婚しようと思う』と言うので、私は結婚を許可しました。
張作霖の爆殺事件(1928年)の前年だったと思います。
父が亡くなり、長男の私が許可を下す役にありました。」
憲立によると、一時期、芳子を張学良(張作霖の息子)の側妃にとの話があったという。
話が進展しなかったのは、「妹を、やはり正妃の座につかせたかったからだ」と彼は言う。
芳子を側妃にする話が事実とすれば、張作霖に対する日本側の懐柔策という推理も成り立つ。
カンジュルジャップは、蒙古のパプチャップ将軍の次男で、日本の陸軍士官学校を卒業していた。
芳子とカンジュルジャップの結婚は、1927年に旅順のヤマトホテルで盛大に行われた。
仲人は関東軍・参謀長の斎藤恒で、関東軍参謀の河本大作(翌年の張作霖爆殺では首謀者となる)も列席した。
芳子の養父である川島浪速が列席した形跡はなく、彼の伝記でも一行も触れていない。
芳子はこの時20歳だったが、彼女の手記は結婚の事をこう書いている。
「旅順から病気静養に大連のヤマトホテルに移ると、明日に私が結婚すると聞かされました。
驚き癪にさわったので、挙式の最中に退席したり、指輪を振り落としたりしました。」
だが結婚写真を見ると、芳子の表情は普通で、左手の薬指に指輪もある。
この結婚は、ほぼ3年で終わった。
憲立は「正確にいうと、離婚ではなく家出です。当時は法的な結婚手続きがありませんでしたから」と言う。
憲立は、芳子の家出の理由について、「芳子は蒙古の草原暮らしが耐えられなかったのか、まもなく大連に戻ってきました」と言う。
芳子の異母兄・憲貴は、カンジュルジャップの姉・少眉と結婚し、3人の娘が健在である。
その娘たちによると、芳子は身勝手な性格で、姑には上手に取り入って愛されたが、姑のいない場所では態度を一変して小姑らに横柄に振る舞い、呆れるばかりの二面性を示した。
芳子の異母姉の顕珴は、家出について別の話を披露した。
「芳子は初夜の腰布団を、翌朝に公開できなかったため、夫の姉の逆鱗にふれて、以来3年間打ち解けなかったと聞いています。」
中国の古いしきたりでは、手製の純白の腰布団を持参し、初夜に花嫁の下に敷く。
これは処女かを翌朝に姑が点検するためである。
芳子は、その布団を見せる事が出来なかったというのだ。
こうして家出をした芳子は、そのまま戻らなかった。
カンジュルジャップは数年後に、蒙古王族の17歳と再婚した。
意外にも芳子は、その再婚の日に特別列車で式場に現われ、祝辞を述べている。
憲立は解説する。
「意外ではありません。
カンジュルジャップに再婚相手をあてがったのは芳子なんです。
芳子としては、自分はあくまでも正妃であり、主人に側妃を持たせたと考えたんじゃないかと思います。」
それにしても、なぜ芳子はあれだけ男性を遍歴しながら子宝に恵まれなかったのだろうか。
兄の憲立は言う。
「それは結婚前に喇叭管の手術をしたからです。
芳子は八重洲口近くの病院で手術をし、子供ができない身体になった。
このことは本人から聞いています。」
ところで川島芳子は、カンジュルジャップ夫人の時期の終わりに、東京・池袋に住んでいた憲立をひょっこり訪ねた事がある。
そして2千円をくすねて持ち去っている。
雑誌「婦人サロン」の昭和7年(1932年)4月号に、森田久子が「清朝王女と二千円」という記事を載せている。
そこでは1930年の初秋ころに、川島芳子らしき人物が久子にこう語ったとある。
「かつて松本在住の時代に、歩兵連隊に勤務する士官の山駕某と恋をした。
その山駕が現在、大連に赴任している。
山駕は芸者に入れあげて、2千円の借金を作ってしまった。
このままだと軍籍を抜かれるので、2千円を融通してもらえないか。」
芳子が松本にいた時代に、連隊にいる山家享に思いを寄せていたのは、すでに通説になっている。
芳子の弟である憲東は、「松本時代、芳子姉が山家さんの下宿部屋の表に立って窓越しに話している様子は、子供心にも切ない関係を感じさせられた」と述べている。
山家享は、北支派遣軍の宣撫担当として中国大陸へ渡り、満州映画協会(満映)の理事長をつとめる元憲兵大尉・甘粕正彦の下で、大陸の芸能界を支配した。
甘粕正彦は、大杉栄や伊藤野枝らを殺害して投獄されたが、刑期を終えてから満州に渡っていた。
余談だが、初代の満映理事長は、善耆(芳子の実父)の息子の金璧東である。
なお山家享は、1950年2月に山梨県・西山村の炭焼き小屋で、首なし死体となって発見された。
山口淑子あてに遺書を残し、子供のことを頼んであったと伝えられている。
享は日本の敗戦後、事業を始めたが200万円の不渡り小切手を発行し、警察に追われての自殺だった。
死体の首は犬が食い荒らしたという。
1930年10月に、田中隆吉・陸軍少佐(37歳)は、上海の公使館付きの武官補佐官として赴任した。
隆吉の職責はスパイ活動で、着任後しばらくして三井物産の招待を受け、その宴席で23歳の川島芳子を紹介された。
すでに芳子は中国語をマスターし、中国服を着ていた。
これは、芳子がカンジュルジャップの許を飛び出し、憲立の懐中から2千円を抜き取った頃だろう。
宴席の翌日、芳子は前触れなく武官室に隆吉を訪ねて、金の無心をした。
芳子は「ある日本人の政治家が、中国・国民政府に航空機エンジンの売り込みで上海に来ているが、資金に行き詰ったので援助してほしい」と言う。
隆吉が支那ドルで千ドルを渡したところ、翌日にその代議士は礼を述べに来た。
1週間ほどすると再び代議士が来て、さらに500ドルを無心して日本に帰った。
それから3日ほど経つと、芳子から電話があり、「入院しているから来てほしい」と頼まれた。
隆吉を病院に呼びつけた芳子は、「行き先がないから下宿を探してほしい」と語り、隆吉は知人の中国人宅に彼女を世話した。
1931年の元旦に、武官室で過ごす隆吉を芳子はひっそり訪ねてきて、強く情交を迫った。
隆吉は、「旧清王朝の王女としての身分をわきまえるように」と諭して帰した。
それから半月ほどして、ダンスホールで2人は再会し、その夜に隆吉は「ついに軍門に降って、彼女と一夜をホテルで過ごし、この夜を契機として関係が始まった」という。
隆吉は一戸を購入して彼女との愛の巣とし、人生の一時期において忘れ得ぬ存在となった。
以上の事は、田中隆吉の著作に書いてあり、見出しは「波乱多き上海時代と川島芳子女史」として一項目立ててある。
(2020年6月23日に作成)