タイトル川島芳子の生涯⑥
関東軍に協力して、第一次・上海事変という謀略に参加する

(『男装の麗人・川島芳子伝』上坂冬子著から抜粋)

1931年9月に満州事変が始まると、10月初旬に川島芳子は、愛人の田中隆吉・陸軍少佐の命令で奉天に赴き、板垣征四郎・関東軍参謀の指揮下に入った。

芳子は日本語と中国語を使えたが、さらに「芳子を一人前のスパイに仕立てあげることに全力を注いだ」と後に回想している隆吉の力で、英語も多少は身に付けていた。

複数の言語をこなし、旧清朝の王女の威光も持つ芳子は、スパイとして便利な存在だった。

一方、川島芳子の養父である川島浪速も、満州事変の直前の1931年6月に、住んでいた信州・松本から急遽、中国の大連に向かった。

1931年11月13日に、天津の桑島・総領事から、幣原喜重郎・外相に宛てて、次の電文が発せられた。

「13日の朝、関東軍の司令部員が来館し、10日の夜に屋敷を脱出した帝(旧清朝の皇帝・溥儀)を、船で営口に送った由を打ち明けた。

この責任は関東軍が負うが、いよいよの時には帝自身の計画であると発表する旨を、帝と打ち合わせ済みと述べた。」

関東軍・参謀だった片倉衷の『回想の満州国』によると、こうである。

「溥儀は随員と暗夜に乗じて脱出し、淡路丸に乗り営口に向かった」

関東軍は、甘粕正彦を営口にさし向けており、正彦は溥儀の一行を迎えて、装甲列車で湯崗子温泉に案内した。

関東軍は溥儀を旅順のヤマトホテルへ移動させ、連絡には板垣征四郎と片倉衷だけが当たる事にし、身辺の雑事は一切を甘粕正彦が引き受けた。

かくて溥儀は、中国人との会見を阻まれ、軟禁状態に置かれた。

1931年11月13日に奉天の林・総領事から、幣原外相へ打電されている。

「関東軍・司令部は、本官に対して、宣統帝(溥儀)は13日の午前10時に営口に到着したが、外部との交渉を遮断して、軟禁状態に置く意向にて、関東庁と交渉中なりと言った。」

この後、川島芳子にとって檜舞台とも言うべき、皇后・婉容(溥儀の妻)の天津脱出が行われた。

計画したのは、奉天特務機関長・土肥原賢二、関東軍高級参謀・板垣征四郎、上海駐在・参謀本部付の田中隆吉らである。

1931年11月26日に、北平(北京)の矢野・参事官から、幣原外相に打電されている。

「川島芳子は板垣参謀の依頼により、ひそかに男装して天津に来て、皇后を満州に連れ出さんとした。

皇后はこれを疑い、土肥原に訪ねたところ、これを肯定したため、皇后は近く船で渡満の由」

天津に潜入した芳子は、監視の目を掠めて婉容を天津から連れ出した。

芳子は得意の運転技術を活かして、皇后を車で連れ出したと伝えられている。

ただし、婉容は夫の許へ行くのをさほど希望していなかった、というのが通説になっている。

芳子の兄である憲立は言う。

「溥儀が同性愛である事は、公然の秘密でした。
だから夫の許へ着いた妃が、嬉々として駆け寄った場面は無かったでしょう。」

片倉衷も当時を回想して、「甘粕正彦の報告では、せっかく妃を連れ出してきたが、幾日たっても敷布が汚れなかったのが不思議だと言っていた」と苦笑している。

31年の暮れに、溥儀と婉容はヤマトホテルから肅親王府に居を移した。

溥儀は満州国の建国までここに住んだ。

1932年1月10日に、上海公使館付きの田中隆吉に宛てて、関東軍参謀の板垣征四郎から長文の電報が届いた。

電報の内容は次のとおり。

「満州事変は予想通りに進んでいるが、世界各国が反対しているので、日本政府も陸軍の中枢も満州国の独立に反対している。

だから上海で問題を起こして、世界の注目をそこに集め、その隙に満州独立を実現させるべし。」

こうして上海の田中隆吉のところに、謀略の資金として2万円が送金されてきた。

この2万円を使って、『第一次・上海事変』が起こされ、日中戦争へと拡大していく事になる。

隆吉らが謀略を始める少し前の32年1月8日、裕仁(昭和天皇)は勅語を下して、満州事変における関東軍の活動を「果断神速、勇戦力闘、皇軍の威武を中外に宣揚せり」と讃えた。

まさにその日、朝鮮人の李奉昌は裕仁の鹵簿をめがけて、桜田門の警視庁前で爆弾を投げつけた。

狙いは外れて裕仁に被害はなかったが、上海の中国国民党の機関紙『民国日報』は「不幸にして僅かに副車を焼く」と報じ、事の成功を願っていたように表現した。

これに上海の日本人居留民は激高し、支那側は謝罪して事態は落ち着いた。

ところが10日後の1月18日に、『日蓮宗僧侶への襲撃事件』が発生した。

この事件は抗日の支那人がやった様に見えたが、実は田中隆吉の仕掛けた謀略であった。

隆吉はさきの2万円のうち、1万円を川島芳子に渡した。

上海には抗日の拠点といわれた共産党系の三友実業公司というタオル製造工場があったが、芳子は公司の労働者を買収し、「日本山妙法寺の僧侶と信者を襲え」と命じた。

1月18日の午後4時ごろ、指示通りに三友実業公司の前で、数十人の労働者が日本人僧侶を襲い、僧侶3人が重傷を負い、うち1人は24日に死亡した。

田中隆吉はさらに、芳子を通じて日本人による支那義勇団に金を渡し、重藤千春・憲兵大尉に30名を指揮させて、三友実業公司を襲撃させた。

これも日本の民間人が報復で行った様に見えたが、隆吉が仕組んでいた。

三友実業公司は従業員1000人ほどの工場だが、放火で火災となり、死傷者が出た。

こうして上海では、日支間は一触即発の状態となり、各国の注目は満州から上海へ移った。

この謀略は、田中隆吉の著作集に書いてあり、隆吉は1965年1月6日に東京12チャンネルの「私の昭和史」でも語っている。

また、芳子の兄である憲立は、「芳子から三友実業公司の労働者を紹介された事がある」と語り、謀略で芳子が大役を果たしたのも間違いなさそうである。

この『僧侶襲撃事件』の後、村井倉松・上海総領事は、呉鉄城・上海市長に次の4項目を要求した。

①陳謝

②加害者の処罰

③被害者への治療費と慰謝料の支払い

④抗日団体の即時解散と排日の取り締まり

これに対して回答期限の間際の1月28日の午後3時に、呉鉄城は「4項目を承認する」と回答した。

にも拘わらず、第1遣外艦隊司令官の塩沢幸一は、その夜に海軍陸戦隊の出動を命じ、日本軍は警備地域を出て閘北に進出した。

閘北には抗日の気風のみなぎった中国・第19路軍がバリケードを築いており、ここで『第一次・上海事変』の勃発となった。

川島芳子を描いた村松梢風の小説『男装の麗人』には、この時期に上海のクラブでダンサーとなって夜な夜な踊りまくる芳子が登場する。

1955年の「オール讀物」によれば、芳子の生活は毎晩夜半すぎまで遊び回り、翌日は正午まで寝るのがお決まりだったという。

だが『田中隆吉著作集』には、当時の芳子がいかに忠実に隆吉の指示に従ったかが、羅列してある。

まず第一次・上海事変が発生するや、芳子は単身で呉淞(ウースン)砲台に潜入し、砲の数を調査して、隆吉の上司である臨時上海派遣軍の参謀長・田代皖一郎に報告した。

これは日本の作戦計画に大いに役立ったという。

また、孫文の長男で行政院長の孫科とダンスを通じて接触し、蒋介石の下野のニュースを逸早くキャッチしたのも芳子だった。

満州事変が起きると、満州を治める張学良は蒋介石に援助を求めたが、蒋介石は手を差し伸べず、満州を日本に明け渡すことになった。

第一次・上海事変に際しても、介石は直属部隊を動かそうとしなかったため、孫科らは満州の二の舞になるのを恐れて介石を批難した。

すると介石は「不満ならそちらで解決せよ」と言って、下野したのだ。

「事前に芳子から、この下野を知らされた関東軍は、芳子への信頼を深めた」と、田中隆吉は言う。

また植田謙吉・中将が支那側の動向調査を指示したところ、芳子は中国・第19路軍の長である蔡挺鍇に会って抗戦の決意だと探り、それを報告した。

芳子の判断は的中し、謙吉は情報の確度の高さを認めたという。

『第一次・上海事変』は、各国の反発を買い、1932年2月2日にイギリス、アメリカ、フランスの駐日大使はそろって戦闘停止を求めた。

関東軍も終結を急ぎ始めたが、ここで芳子は暗躍した。

芳子はまず第19路軍の蔡挺鍇に会い、「日本軍の新手が向かっている」と伝えて、戦争終結の急を説いた。

他方では日本側に「支那軍が民家の略奪を始めたのは、戦意を喪失しているせいだ」と伝えて、戦闘停止へ誘導した。

芳子の第一次・上海事変の停戦における働きは、田中隆吉の著作集に従うと次のとおりだ。

隆吉の紹介で芳子は、国民政府・政治会議秘書長の唐有壬に近づいた。

そして芳子は、上海の国民政府系の銀行が破産寸前であると聞き出し、有壬が停戦を望んでいる事を隆吉に報告した。

隆吉はこの情報を田代皖一郎を通じて日本政府へ打電し、日本は優位に立って停戦交渉を運べた。

後に唐有壬は、日本側に情報を漏らしたとして生命の危機に晒され、芳子に助けを求めた。

芳子は隆吉の指示で、有壬を自宅に2週間匿った。

孫科も同じく、日本側に情報を漏らしたとして蒋介石から糾弾され、隆吉はここでも芳子に保護を命じた。

芳子は日本籍の客船に孫科を忍び込ませ、広東に逃がした。

第二次大戦の終結後に「漢奸」として処刑された川島芳子の罪状は、主に『第一次・上海事変』での暗躍ぶりにあった。

第一次・上海事変は、各国の目を上海に集中させて、その隙に日本は満州で地固めを行い、1932年9月15日の『日満議定書の調印』にこぎつけたという意味で、重大な意味をもつ。

だが芳子は、日本の特務機関や関東軍の命令で動いたのである。

彼女の愚かさは言うまでもないが、真に咎められるべきは謀略に彼女を組み込んだ側にこそある。

『田中隆吉著作集』は、芳子をスパイとして利用した理由を、こう述べている。

「彼女は旧清朝の王族であるという誇りを一時も忘れた事がなく、日本の力を背景にして清朝の復辟を行うことを決心して居り、ために一身を投げうっても心残りはないと語っていたからだ。」

だが隆吉ほどの地位にあれば、清朝の復辟はもはや絵空事だと知らぬはずはない。

つまり関東軍の首脳部は、国籍の異なる女性の弱みを逆手にとって、謀略に組み入れたのだ。

1932年3月1日に、満州国の建国宣言が行われた。

溥儀は「執政」に就任した。

溥儀の『わが半生』によると、執政就任は次の段取りで行われた。

まず関東軍・第4課の演出の下で、「全満州会議」が決議を行い、溥儀に執政になることを請願する。

溥儀は予め言い含められた通りに、「1年間は執政の任にあたり、その後に失敗が多ければ道を賢人に譲る」として受諾した。

これは清王朝の復辟とはほど遠い。

日本の敗北後(降伏後)に、東京裁判で本物か偽物かと議論をよんだ、田中義一・首相から裕仁(昭和天皇)への上奏文、いわゆる「田中メモランダム」には次の一節がある。

「満蒙(満州と蒙古)を根拠とし、貿易の仮面をもって支那の四百余州を風靡する。

満蒙の利権を司令塔として、全支那の利源を攫取し、支那の富をもってインド、南洋各島、進んでは中小アジアおよびヨーロッパを征服する。

我が大和民族がアジア大陸に歩武する第一の大関鍵は、満蒙の利権を把握するにあり。」

田中メモランダムは偽物という説が一般化しているが、1つの時代の趨勢を象徴したものなのは否定できない。

川島浪速は、1932年の『呈・斎藤総理大臣・意見書』の中で、警告している。

「我が出先の軍部が、満州国に対して実行している壟断的な干渉を緩和せねばならぬ。

彼らの国家の体面を毀損し、個人の面子を蹂躙し、誤解と悪感を惹起せしめる行為を廃止せよ。」

浪速の発言を裏付けるように、32年の天皇誕生日には、上海の祝賀会場で朝鮮人の尹奉吉が爆弾を投げ、上海派遣軍司令官の白川義則が死亡し、重光葵・駐支大使も負傷した。

『田中隆吉著作集』によると、満州国の建国の頃、「川島芳子は成功と名声に酔い、隆吉との関係も徐々に薄れた」とある。

隆吉と芳子は仲違いし、芳子は親交のあった日本海軍の植松練磨・少将にこう告げ口した。

「田中隆吉は常日頃、海軍のだらしなさを慷慨している。

1932年2月22日に廟巷鎮において、体当たりで敵陣に乗り込んで軍神と崇められた北川丞、江下武二、作江伊之助の爆弾三勇士の一件は、実は火縄を1mにすべきところを50cmにしたために起きた事故死であった。

それを隆吉が美談に仕立てて、海軍を出し抜いた。」

これを聞いた植松練磨は、「田中隆吉を殺せ」と指示し、隆吉は三上卓・中尉らに襲われたそうだ。

隆吉は「満州事変の発生以来の海軍の行動に敬意を表す」と一筆したためて、その場を逃れた。

隆吉によると、実際に爆弾三勇士の事故死を美談に仕立てたのは、当時の陸軍大臣・荒木貞夫で、爆弾三勇士の命名も貞夫がしたという。

隆吉は、これ以上芳子を上海におけぬと判断し、関東軍の板垣征四郎に引き取りを依頼した。

征四郎は、芳子を満州国の女官長として赴任させたが、「溥儀の反対で就任できなかった」として芳子はすぐに上海に戻ってきた。

だが、芳子の兄である憲立に言わせると、少し話が違う。

かつて抗日の態度だった馬占山は、満州国ができると日本に屈して、満州国の軍政部の要職に就いた。

憲立は溥儀の依頼で、馬占山の機密秘書となった。
ところが占山は再び抗日の態度になり、逃亡してしまった。

秘書の憲立が困惑している所に、板垣征四郎から書簡が届き、奉天に呼びつけられた。

憲立が急遽かけつけると、征四郎は「芳子の横暴ぶりが関東軍の邪魔になってきた。引き取ってくれ」と言う。

憲立が芳子を上海から一族の住む大連に連れ帰ると、後を追うように田中隆吉から「君なしでは生きていかれない」という電報が届いた。

馬占山の逃亡は1932年4月2日だから、隆吉の打電は4月上旬だろう。

憲立がこれを板垣征四郎に告げたところ、征四郎は隆吉を譴責したとのことで、「私の知るかぎり、芳子に一貫して紳士的だったのは板垣征四郎と石原莞爾くらいだ」と憲立は結んだ。

田中隆吉は、32年7月に転勤で日本に帰国したが、隆吉の著作集によれば途中に大連で芳子と再会し、芳子と共に奉天の多田駿・大佐を訪ねて、「芳子の将来に配慮を依頼した」という。

こうして芳子は、多田駿の配下になり、安国軍の司令官として活動することになった。

(2020年8月8&13~15日に作成)


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