タイトル海軍内で「艦隊派(統帥派)」が勝つが、博恭の独裁下となる

(『日中戦争全史・上巻』笠原十九司著から抜粋)

ロンドン海軍軍縮条約(1930年)の時に、日本海軍の中では、条約に賛成する「条約派」と、条約に反対する「艦隊派」に大きく割れて対立した。

海軍では、海軍省の重要ポストを歴任する、行政・事務に長けるエリート士官たちは、「軍政派」と称されて、それは「条約派」と重なった。

いっぽう、軍令部で作戦部長などに就く士官たちは「統帥派」と称されて、それは「艦隊派」と重なった。

(※日本海軍の中央機関は、海軍省と軍令部の2つである)

ロンドン海軍軍縮条約の時は、海軍省の山梨勝之進・海軍次官が条約成立にために省内をまとめ、堀悌吉・軍務局長と古賀峯一・副官が補佐した。

彼らは、海軍内の良識派であった。

その一方、加藤寛治・軍令部長と末次信正・軍令部次長は、条約に反対した。

寛治は対米強硬派で、「アメリカ海軍との戦争に勝つには、最低でも対米7割の主力艦・補助艦を備えなければならない」と主張した。

この時、犬養毅、鳩山一郎、森恪ら、政友会の幹部は、加藤寛治ら強硬派と組んで、統帥権の干犯問題を持ち出して、与党の民政党を攻撃した。

反対に遭いながらも、海軍内の条約派と、浜口雄幸・内閣の幣原喜重郎・外相は、条約批准の方針を貫き、ロンドン海軍軍縮条約に加盟した。

加藤寛治は「条約調印は天皇の統帥権の干犯である」と抗議して、軍令部長を辞任した。

後任は谷口尚真になったが、尚真は条約派だった。

寛治らは、尚真を引きずり降ろすことを画策し、皇族の博恭(伏見宮)と海軍で神様扱いされている東郷平八郎・元帥を担ぎ出すことにした。

谷口尚真・軍令部長は、1931年9月に満州事変が始まると、「満州事変は対英米の戦争になる恐れがあるが、日本にはそのような国力がない」と、反対を表明した。

これに対し東郷平八郎は、「仮想敵国である米国と戦えないとは、谷口は弱い。谷口に辞職を勧告せよ」と公言した。

さらに加藤寛治は、平八郎に「皇族の伏見宮・海軍大将こそ軍令部長にふさわしい」と言わせた。

この裏工作は功を奏し、谷口尚真は四面楚歌になって辞表を提出した。

そして1932年2月2日に、皇族の博恭(伏見宮)が軍令部長に就いた。

博恭は、就任当初から「不可避となったら対米戦争をやるべし」と語る、対米強硬論者であった。

博恭の就任と同時に、加藤寛治の懐刀である高橋三吉が軍令部次長になり、実権を握った。

軍令部を掌握した艦隊派は、海軍省からも条約派の追放を行った。

高橋三吉は、「軍令部の案が通らなければ、伏見宮殿下は部長を辞めると言っておられる」などと、皇族の権威を利用して、大角岑男・海相に圧力をかけた。

この結果、1933~34年にかけて「大角人事」が行われ、条約派の人々が海軍の中枢から一掃され、予備役に編入された。

軍縮条約の批准に努力した者達が、現役から追放されたのである。

こうして艦隊派が勝ち組となったが、その結果、海軍は国際的な視野を失い、大海軍主義を唱え、のちには南進策を進める事になる。

1933年10月に、海軍・軍令部は条例を改定して、軍令部長を「軍令部総長」に名称を変更した。

これは陸軍の参謀総長という職に対抗し、陸軍の下風に立たないためだ。

さらに軍令部は、天皇に直属する機関なので、統帥権の独立を持ち出し、海軍省の持っている艦隊や軍隊の編成権を奪った。

こうして軍令部総長は、各艦隊や各司令官に対して、年度作戦計画を直接に指示できるようになった。

年度作戦計画は、天皇に奉呈する前に海軍大臣(海軍省のトップ)に商議する慣行だったが、それも捨てた。

これに加えて、従来は新しい海軍大臣は前任者が天皇に推薦していたが、「博恭・軍令部総長の同意がなければ天皇に推薦できない」という不文律が生まれた。

将官級の高級人事も、博恭の同意がなければ出来なくなり、博恭に嫌われた者は現役から追放されるまでになった。

こうして日本海軍は、博恭の海軍の様になった。

博恭は、1932年7月に元帥になったが、元帥には終身現役の特権が与えられた。

博恭は41年4月まで、9年間も海軍のトップに君臨し、ワンマンぶりを発揮し続けた。

これは、日本軍が天皇の軍隊だからこそ起きた事である。

博恭が長期にわたって権勢をふるったために、海軍では能力に関係なく博恭に取り入る者が出世する事になった。

博恭の第1の寵臣が、嶋田繁太郎である。

繁太郎は、軍令部次長として日中戦争を進め、東条英機・内閣では海軍大臣となった。

繁太郎は、1944年2月~8月には軍令部総長となり、「東条の副官」といわれた。

博恭の第2の寵臣が、永野修身である。

修身は対英米の強硬論者なので、博恭に気に入られた。

日本は1936年1月に第2次・ロンドン海軍軍縮会議から脱退するが、その時の日本全権が修身であった。

永野修身は、広田弘毅・内閣で海相となり、1936年6月の国策(帝国国防方針)の改定時に南進論を併記させることに成功した。

41年4月に博恭の後任として軍令部総長に就き、対米英戦争になるのを決定づけた南部仏印への進駐を行った。

そして44年2月まで軍令部総長として、アジア太平洋戦争を指導した。

博恭の第3の寵臣が、及川古志郎である。

古志郎は、中国方面を担当する第3艦隊の司令官として活動した。

1940年9月から41年10月まで、近衛文麿・内閣で海相を務めたが、対米開戦をめぐる議論では優柔不断の態度をとり、結果的には対米開戦に追随した。

古志郎は、44年8月に嶋田繁太郎が軍令部総長を辞任すると、その後任となって45年5月まで務めた。

このように、博恭の3人の寵臣が海軍の最高権力者となって、アジア太平洋戦争へと導いたのである。

海軍内の「艦隊派」は、派閥抗争で勝ったわけだが、彼らは艦隊どうしの砲撃戦を重視し、軍備計画では軍艦の増設を第一に考えた。

そして戦艦は大きければ大きいほど良いとし、大鑑巨砲主義に立って、巨費を投じて世界最大級の戦艦大和や戦艦武蔵を建造した。

だが最終的には、アジア太平洋戦争では艦隊による決戦はなく、米軍機の攻撃で日本の戦艦は撃沈された。

海軍内には、空中戦を重視する「航空派」もいた。

航空派は、軍備計画では爆撃機や航空母艦を第一に考え、「戦艦無用論」を唱えた。

艦隊派と航空派は対立する事もあったが、軍拡を目指す事では一致していた。

航空派の指導者は山本五十六で、他には大西瀧治郎や源田實らが中心となった。

五十六は、ロンドン海軍軍縮条約の時は、強硬な条約反対論者だった。

五十六は軍縮会議に次席随員として参加したが、大蔵省からの随員の賀屋興宣が財政面から軍縮の必要性を説くと、「賀屋黙れ、なお言うと鉄拳が飛ぶぞ」と怒鳴る有様だった。

山本五十六は、軍縮会議から帰国した直後の1930年5月に、海軍航空本部・技術部長になった。

35年には航空本部長となり、航空兵力の開発をした。

(2020年6月28日に作成)


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