タイトル日本の華北分離工作、傀儡の冀東防共自治委員会を設立

(『日中戦争全史・上巻』笠原十九司著から抜粋)

中国では、進出した列強国が義和団戦争に勝利した後、1901年の「北京議定書」において、北京や天津に軍隊を駐屯させることを清朝に認めさせた。

駐屯権を得た各国は協定を結び、日本軍は1571人、アメリカ軍は1227人、フランス軍は1823人、イタリア軍は328人が割り当てられた。

日本はその駐留軍を「清国駐屯軍」と名付けたが、辛亥革命後の1913年に「支那駐屯軍」と改称し、司令部を天津に置いた。

1935年5月には、北京と天津に合わせて1771人の日本軍が駐屯していた。

1935年に日本の関東軍と支那駐屯軍は、当時は「北支自治工作」と称したが、華北を中国政府から分離させて日本の支配下に置こうとし、傀儡政権をつくろうとした。

いわゆる「華北分離工作」である。

関東軍の司令部は、「北支問題について」という1935年12月の文書において、「北支に存する鉄・石炭・綿花などの資源開発に依りて、日満と北支の自給自足を強化する」とした。

つまり資源の獲得が、日本の北支進出の目的であった。

「北支(北支那」とは、華北のことで、河北省・チャハル省・山東省・山西省・綏遠省の5省を指す。

日本は、華北を第2の満州国(植民地)にしようとしたのである。

満州事変、満州国の建国、国連からの脱退という3連続の行動で、英米との対立を深めた日本は、英米との戦争に備えて華北の資源と市場を狙った。

日本の華北進出の背景には、仮想敵国にするソ連が第1次・5ヵ年計画を達成して、経済力を強化した事もあった。

日本は、土肥原賢二・奉天特務機関長が中心となって、北支自治政府の樹立工作を進めた。

そして1935年11月25日に、殷汝耕を委員長とする「冀東防共自治委員会(のちに冀東防共自治政府と改称)」を設立した。

(冀とは河北省の別称である。つまり冀東とは河北省の東部を指す。)

殷汝耕は、浙江省の出身で、日本に留学して日本人の妻をもつ政治家である。

「現地における北支の処理の主宰者は、実質的にも支那駐屯軍とす」と陸軍次官からの指示(35年11月26日)にあるように、冀東防共自治委員会は日本の傀儡政権であった。

なお「防共」とあるのは、ソ連がモンゴルを衛星国にしている事や、満州で共産党がゲリラ戦をしている事を意識したものである。

のちに日中戦争が本格化すると、日本政府はソ連の支援を受ける蒋介石・国民政府を「赤魔ソ連の手先」とまで呼ぶようになる。

当時の日本は、治安維持法の下にあり、「共産主義は悪であり危険思想である」と徹底的に思想教育していた。

そのため国民の反共意識が高まり、エスカレートしていって、天皇制や政治体制に同調しない者まで「アカ」と呼んで差別するまでになった。

中国の国民政府は、冀東防共自治委員会に対抗して、1935年12月18日に北京にて宋哲元を委員長とする「冀察政務委員会」を設立した。

(国民政府の首都は南京である。察はチャハル省を指す。)

宋哲元は、河北省とチャハル省に勢力をもつ軍人で、冀察政務委員会は地方軍閥の政権であった。

蒋介石は、「安内攘外」の政策を採っており、地方軍閥を日本軍の矢面に立たせたのである。

(安内攘外とは、国内の地方軍閥や共産党を倒してから、外から来た日本軍を倒す、という政策です)

宋哲元は、日本側との揉め事に対し、小さな譲歩をしつつ、「華北自治」や「共同防共」といった日本の重要要求は引き延ばす策を採った。

河北省では、2つの政権が併存する状態になったが、日本政府は日本企業の華北進出を促進させて、1935年12月には経済開発機関として満鉄が全額出資する「興中公司」(社長は十河信二)を設立した。

1936年1月13日に日本政府は、「自治区域は北支5省を目途とするも、まず冀察2省(河北省とチャハル省)および平津(北平・天津)2市の自治の完成を期す」という、『北支処理の要綱』を決定した。

これは、華北の5省を国民政府から分離させるため、まずは冀察に着手するというものだ。

日本政府の決定をうけて、東洋紡や鐘紡などが華北に工場を新設するなど、日本企業がなだれを打って華北に進出した。

日本は、冀東防共自治政府に、国民政府の定める関税率の7分の1~4分の1の税率を設定させ、「冀東特殊貿易」と称した。
実態は密貿易である。

この貿易で、日本商品が大量に入ることになり、華北だけでなく華中まで進出した。

さらに冀東は、日本人による麻薬(アヘン)の密造・密売の舞台にもなった。

1936年4月17日に広田弘毅・内閣は、陸軍の要請どおりに、支那駐屯軍を1771人から5744人に増やす決定をした。

日本陸軍は増員の理由を、「増大した在留日本人を、中国共産党の脅威から保護するため」とした

日本が支那駐屯軍を増強したことは、中国国民に「華北に第2の満州国をつくろうとしている」と思わせ、抗日運動がいっそう激化した。

北京にいる日本軍は、増員されたので新たに北京の西南にある豊台にも駐屯した。

豊台駅は、鉄道の要所であり、北京を包囲する意図があると中国側に思わせた。

しかも豊台には、宋哲元の軍の兵営があった。

こうして36年9月18日に、日本軍と宋哲元の第29軍の小競り合い(豊台事件)が発生した。

この事件は、宋哲元が陳謝して豊台の兵営を撤去することで解決した。

日本軍が宋哲元軍の領域に侵入して駐屯するこの挑発行為は、翌年の盧溝橋事件につながる。

盧溝橋事件も、支那駐屯軍と宋哲元の第29軍の小競り合いがきっかけであった。

(2020年6月28日に作成)

(『馬占山と満州』翻訳・陳志山、編訳・エイジ出版から抜粋)

1935年の5月末に、日本軍は「河北事件」と「張北事件」に関連して、中国の国民党政府に「河北省の中国軍を撤収せよ」と要求した。

(河北事件は、抗日運動を理由に、日本軍が河北省の国民党支部の撤退などを要求した事件である。

張北事件は、日本の特務機関員らが、チャハル省の張北で宗哲元軍に逮捕された事件である。)

国民党政府は6月10日に要求を受け入れて、何応欽が代表となり、関東軍・司令官の梅津美治郎と『梅津・何応欽の協定』を調印した。

これにより、河北省と北平(北京)と天津の国民党支部を解散することと、河北省の中国軍を撤退させることが決まった。

上の協定のすぐ後に、日本軍はすでに奪っている熱河省の隣にあるチャハル省についても、中国軍の撤収を要求した。

その理由は、「チャハル省の宋哲元・主席の部隊が、反日の態度をあらわにしている」だった。

国民党政府はこれも受け入れて、6月18日に宋哲元の解任を決めた。

そして6月27日に、日本軍の特務機関長の土肥原賢二と、チャハル省・代理主席の秦徳純は、『土肥原・秦徳純の協定』に調印した。

上の2つの協定により、河北省とチャハル省の北部は、日本の支配下に入った。

11月23日に国民党政府は、日本側に呼応して、河北省・東部の22県に親日政府をつくる宣言を行い、「冀東防共委員会」を組織した。(冀は河北省の異名)

こうした事に対し、中国民衆の抗日の声は高まる一方だった。

そして中国共産党は抗日の姿勢を強めていった。

中国共産党の中央委員会は1935年8月1日に、「抗日救国のために全同胞に告ぐ」との宣言を発表し、「(国共の)内戦の停止、抗日での一致」を呼びかけた。

この宣言では、「階級を問わず団結し、国民党と抗日連合軍を組織する」とアピールした。

35年12月9日に共産党の指導で、北京の学生1万人余りが抗日デモを行った。(一二・九運動)

12月16日には、冀察政務委員会(日本軍の圧力で成立した、河北省とチャハル省を統轄するための委員会。委員長は宋哲元。)の設置に反対し、3万人余りの学生がデモを行った。

(2021年6月5~6日に作成)


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