タイトル蔣介石と青幇・紅幇のつながり、
杜月笙、黄金栄、陳其美、14K

(『龍の系譜』マーティン・ブース著から抜粋)

蔣介石は1887年10月31日に、浙江省の渓口という町で生まれた。

母は塩商人の3人目の妻で、介石が幼い頃に父が死んだので、母は未亡人として苦しい生活を送った。

介石は情緒不安定な子供で、ちょっとした事で怒りの発作を起こし、しょっちゅう病気になった。

父の死後、一家は悪辣な地主の餌食となり、介石は身におぼえのない犯罪で逮捕された。

彼は恨みをつのらせ、街頭のギャング団に加入した。

介石は14歳の時、17歳の毛福梅と結婚した。
親同士が決めた結婚だった。

蔣介石は18歳になった時、父の商売を継がないことに決めて、学校に入った。

学校で1年すごし、成功しようと決意してその学校を去り、1906年に数か月間、中等学校に通った。

その後、辮髪を切って、軍事教育を受けに日本へ渡った。

だが行ってみて、清朝の後援がないと陸軍学校に入れないと知り、目的を失って在日の中国人コミュニティに接し、孫文の信奉者の陳其美と親しくなった。

陳其美は、上海の秘密結社(犯罪組織)である「紅幇」のメンバーだった。

蔣介石は、陳其美の指導で、中国に戻り河北軍官学校の試験を受けて合格した。

やがて日本に留学する許可を得て、妻と息子(蔣経国)を残して、東京の振武学堂に入った。

ちなみに介石は、妻をしばしば打擲し、性的な虐待をした。

蔣介石は留学中も時おり中国へ戻り、ほとんどの時間を上海で陳其美と過ごした。

介石が上海の犯罪組織「青幇」に入ったのは、こうした帰国中だった。

介石は、脅し、強盗、刑務所破りに参加し、有能な暗殺者という評判を得た。

上海の共同租界では警察に追われ、しょっちゅう起訴されたが、有力な友人がいたので逃げきれた。

蔣介石は1911年に振武学堂を卒業し、陳其美と合流して辛亥革命に参加した。

其美は第83旅団を率いており、それは3千人の青幇の四九(兵隊)から成っていた。

介石は、精鋭100人を率いて杭州を急襲し、清軍を破って杭州を解放した。

辛亥革命が成功すると、陳其美は上海の軍政官に任命されて、蔣介石は連隊長になった。

1912年の初めに、蔣介石は暗殺に関与した。

上海の革命家で「光復会」のリーダーの陶成章が、上海市のトップにいる陳其美の地位を奪おうとしていたらしい。

成章が病気で入院すると、其美の意を受けた介石は病院に行き、護衛が居なくなるのを待って病室に入り、成章を射殺した。

(介石が光復会の王竹卿を雇って殺させたとも言われている)

これが世間に知られ、介石はしばらく隠れるため日本に逃げた。
12年の暮れに上海に戻った。

蔣介石は放埓で自堕落な日々を過ごしたが、上海はそういう生活にうってつけの都市だった。

1912年には12軒に1軒の割合で売春宿があったし、若い男性も数多く売春に従事していた。

介石は大酒を飲み始めて、フランス租界の売春宿で歌妓(歌をうたう売春婦)と暮らしていた。

彼が贔屓にした店は「メゾン・ブルー」で、専属オーケストラを抱えており、1920年代には専属ジャズバンドもいた。

上海の共同租界のすべての売春宿は、青幇によって経営されていた。

蔣介石は犯罪まみれの環境で暮らし、青幇の幹部全員と知り合った。

そのうちの1人が、青幇のボスの杜月笙だった。

杜月笙は、1887年か88年に黄浦江をはさんで上海の対岸にある浦東地区に生まれた。

浦東地区は、中国でも有名なスラムだった。

杜月笙の母は、彼は3歳の時に死んだ。

父は若い女と再婚したが、2~3年後に死んだ。

月笙は義母と暮らしたが、この未亡人はごろつきに誘拐され、売春宿へ売り飛ばされた。

10歳ほどになっていた月笙は、叔父に引き取られたが、叔父は彼を虐待して召使としてこき使った。

12歳になった杜月笙は、すでに筋金入りの非行少年で、その非情さを轟かせていた。

この頃に紅幇に加入し、ナンバー賭博の使い走りになった。

そして彼は、紅幇のボスである黄金栄の自宅兼本部に出入りするようになった。

黄金栄は、上海の裏社会で最も有力な人で、アヘンの大ディーラーであり、当時に有名だった「大世界」という娯楽場ビルの共同オーナーであり、さらにフランス租界警察の刑事部長でもあった。

黄金栄の妻はアヘンのディーラーをしていたが、杜月笙が15歳の頃に配送中のアヘンが盗まれた。

月笙はそれを取り戻したので、金栄に褒められた。

黄金栄は、杜月笙を見込んでアヘン・ディーラーに起用し、殺し屋としても使った。

杜月笙は、21歳になる時にはフランス租界のアヘン窟の半数を支配し、高級宝石店のオーナーに収まっていた。

また金融会社も経営し、大勢にカネを貸していた。

ほどなくして月笙は、紅幇の紅棍(幹部)に昇格し、黄金栄の腹心になった。

幹部になった杜月笙は、上海でアヘン・ビジネスに従事している3つの秘密結社、つまり紅幇、青幇、藍幇の合併を進言した。

黄金栄はそれに賛成し、計画を進めるよう指示した。

青幇のリーダーは合併に反対したが、杜月笙は彼を殺して自分が後釜に据わった。

藍幇のリーダーの張嘯林は、連携の話に乗った。

こうして上海のアヘン・ビジネスは、3つの結社のカルテルの支配下に入った。

彼らの縄張りは浙江省と江蘇省に広がり、長江をさかのぼってケシの栽培地域に直結した。

上海の共同租界では、アヘン・ビジネスは長らく「三和会」の手で仕切られていた。

杜月笙が働きかけると、三和会のリーダーは青幇と合体させた。

三和会のメンバーは、孫文とチャーリー宋を含めて、合体に反対しなかったようだ。

杜月笙が共和主義者(革命家)たちと密接な関係に入ったのは、この乗っ取りを通してだった。

上海の三和会は解散した。

上海の裏社会は、黄金栄がボスで、杜月笙が副ボスの時代となった。

月笙は、フランス租界の警察ばかりか、イギリス地区を含む他の租界の警察もカネで抱き込んだ。

杜月笙は1915年に結婚したが、妻は石女と分かり、養子をとりつつ、15歳の妾を2人かこった。

この一家は、フランス租界の豪邸に住んでいた。

アヘン・カルテルの幹部は皆がフランス租界に住み、フランス租界の刑事部長である黄金栄に守られていた。

アヘン常用者なのに精力のある杜月笙は、妾たちに6人の男子を産ませた。

杜月笙は、チャーリー宋を通して上流社会と交際し、チャーリの娘である宋靄齢と友達になった。

靄齢が孔祥煕と結婚したため、月笙は銀行家と知り合い、宋一家に支配された孔祥煕の銀行帝国は青幇と結びついた。

宋一家、孔一家と青幇ら犯罪組織の結びつきは、莫大な富を集め、中国経済をほぼ支配した。

1949年に中国共産党が勝利して、中華人民共和国が樹立すると、やっとこの支配は終わった。

1930年代に発行された『上海紳士録』を見ると、杜月笙の項目にはこうある。

「現在、上海のフランス租界で最も有力者。
福祉事業家として知られる。

上海参事会・参事、正始中学校の創設者および理事長、上海救急病院・理事長、杭州華豊製紙・理事長、光華大学・理事、中国棉製品交易所・理事長、上海汽船・理事長など。」

杜月笙は、外国人からの信用を増すために、1936年に洗礼を受けてキリスト教徒になった。

だが、しばしば青幇が経営する淫売宿を訪れ、売春婦ばかりか、若い男を相手に遊んだ。

杜月笙が贔屓にしていた店は、蔣介石と同じ「メゾン・ブルー」で、2人はここで知り合った。

1912年のある日、蔣介石、陳其美、それに国民党軍・参謀長の黄郛は、ある儀式に出席して義兄弟の契りを交わした。

同時に蔣介石は、青幇の幹部で杜月笙の腹心である張静江という銀行家と、深い親交を結んだ。

張静江は、中国の古物美術商の国際的ディーラーでもあり、そうした品を秘密結社の仲間から買って、パリとニューヨークにある自分の店で売っていた。

張静江は、蔣介石の最重要なパートナーになり、資金の洗浄や、介石の交渉の代理役を担った。

中国で袁世凱が政権をとると、陳其美や蔣介石は警察に追われる存在となり、日本へ逃げては上海へ戻ってきて、犯罪を続けた。

陳其美は、札つきの犯罪者であると同時に、国民党・中央委員会の長に就いていた。

1916年5月、袁世凱の退位の1ヵ月後に、とうとう秘密警察が陳其美を見つけて殺した。

師であった其美を失った蔣介石は、ひどいショックを受けたが、結果的に国民党内で権力図が変わり、介石は孫文の補佐役となり、17年には広州の軍事顧問になった。

蔣介石は杜月笙と連携して、一緒になって上海に株式市場と商品取引所を創設した。

そしてインサイダー取引で大儲けした。

月笙は儲けの中から国民党に寄付をし、見返りとして国民党軍の少将になった。

袁世凱の死後、中国は軍閥が争う時代になったが、杜月笙はその情勢に乗じて利益を得た。

つまり、軍閥たちからアヘンを買い、彼らに兵器を売るか、外国人の武器商人に取引させて紹介料をとった。

一方、蔣介石は孫文に取り入って、側近になった。

1923年に蔣介石は、孫文の政府へのソヴィエトからの支援を取りつけるため、モスクワに送られた。

この功績により、24年に介石は広州の近くの黄埔に設立される軍官学校の準備委員会の長に任命された。
(後にこの学校の校長になった)

さらに数か月後には国民党軍の参謀長になった。

新設された黄埔軍官学校で、学生募集を任されたのは、陳其美の甥の陳果夫だった。

果夫は、主に青幇のメンバーから7千人の幹部候補生を集め、彼らは卒業後に蔣介石の部下になった。

1925年に孫文が死ぬと、国民党の指導権をめぐって権力闘争が起きた。

一般には民主主義を目指す廖仲愷が後を継ぐと考えられていたが、仲愷には裏社会(秘密結社)に後ろ盾がなかった。

他方で、中国共産党は労働運動を指揮してストを指令し、右翼的傾向の強い秘密結社たちの力を弱めたいと望んでいた。

杜月笙は、病的なほどの反共だった。
彼の考えでは、共産主義は中国社会を土台から崩すことのできるイデオロギーで、「そんな事になれば、自分の犯罪帝国が危うい」と考えたのだ。

事実、共産党は労働組合を組織して、農民に対する秘密結社の支配力を弱体化させつつあった。

杜月笙の命令で、張静江が広州に派遣され、権力奪取に入るよう蔣介石に告げた。

そのすぐ後、1925年8月に廖仲愷が広州で射殺された。
犯人は上海から送り込まれた青幇の5人の殺し屋だった。

さらに、「この暗殺を計画したのは、胡漢民だ」という噂が流れた。
これで胡漢民も失脚した。

そうして蔣介石が登場し、国民党の新指導者に選ばれた。

この人事で、国民党は徹頭徹尾で犯罪化した。

介石は直ちに、張静江を国民党・中央委員会の長に任命した。

蔣介石と張静江のバックに杜月笙が居ることを知る者は、ほとんどなかった。

実のところ介石には力はなく、彼をしかるべき地位に留めているのは月笙だった。

介石は月笙に、秘密結社のしきたりに従って、毎月の貢物を続けた。

蔣介石は、共産党の粉砕に乗り出し、共産主義にかぶれた上海の学生が殺され、しばしば斬首されて街に投げ捨てられた。

上海のフランス租界は、アヘン取引の中心地で、青幇が一手に行い、杜月笙が支配していた。

杜月笙は、ペルシアから未処理のアヘンを輸入し、さらに雲南省と四川省のケシ畑も所有していて、南京・杭州・上海で精製を行った。

アヘン・ビジネスにより、月笙は中国でも屈指の金持ちだった。
その稼ぎは、蔣介石と一緒に設立した株式市場に投資された。

月笙はフランス租界のフランス人の官僚と警察に、月々15万ドルの賄賂を送った。
フランス租界に住んでいるおかげで、中国警察の干渉を受けなかった。

1927年3月20日に、共産党が上海で蜂起し、80万人の労働者がストに入った。

次いでソヴィエトから来た顧問の訓練通りに、発電所や駅や郵便局を占拠した。

上海市はマヒして、秘密結社の幹部たちは中国人地区から追い出された。

同年3月26日に、蔣介石は上海のフランス租界に来て、黄金栄、杜月笙、張嘯林と共に上海奪回の作戦会議を開いた。

介石は共産党との連帯を宣言し、これが共産党を混乱させ警戒を緩めさせた。

介石は労働者たちに向かい「諸君の苦情にしかるべく対処する」と述べ、決起した彼らを褒めたたえた。

大勢のスト参加者が彼の言を信じ、武器を引き渡した。
介石が国民党軍と共にやって来たのは、共産党を支援するためだと思ったのだ。

この時の共産党の指導者は、後に首相をつとめる周恩来だったが、恩来はかつて介石の部下で、介石が校長だった黄埔軍官学校で政治部主任という要職にあった。

共産主義に転向する前(おそらくその後も)秘密結社のメンバーだった周恩来は、蔣介石と杜月笙に完全に騙された。

上海の銀行家や商人などは、共産党の支配下に入ると苦境になるので、蔣介石と青幇に数百万元を支払い、さらに介石に3千万元を融資し、2千万元を寄贈した。

そのカネが介石の口座に納まると、介石は腰を上げ、4月20日に青幇にテロを行わせた。

これが『白色テロ(反共クーデター)』と呼ばれるもので、共産党員とそのシンパが襲われ、集団処刑された。

青幇の四九(兵隊)が群れをなして街路を徘徊し、ぶった斬られた死体が大通りに転がった。

青幇に捕まった若い女性は強姦され、腹を裂かれて自分の内臓で手足を縛られた。

男はしばしば、秘密結社の流儀により、斬り殺される前に去勢された。

この反共クーデターで殺された者は、5千~1万人と推定されている。

上海から共産党を追い出すと、国民党軍と秘密結社は中国各地の都市へ出掛けて、共産党を潰していった。

蔣介石が1928年に南京に政府を樹立すると、秘密結社の指導者はこれを歓迎した。

秘密結社は新政権において、ゲシュタポ的な役割を担った。

その見返りとして介石は、秘密結社に無制限な犯罪活動を許した。

おまけに介石は、秘密結社の大物に政府の要職を保証した。

そして「中国から共産主義を撲滅する」と誓った。
白色テロは数年にわたって続行された。

蔣介石の政権は、労働運動を粉砕し、運動の指導者は処刑されて、紅棍(秘密結社の幹部)が労働者の新しい主人になった。

外国人の貿易会社は、介石にカネを貸し、武器を売って、秘密結社にコンプラドール(買弁)をさせた。

蔣介石政権では汚職が日常で、司法はごろつきの手に渡った。

警察と軍はすっかり汚染され、逮捕すべき人間に牛耳られた。

青幇の助けを得て、介石は上海の裕福者と商人に対し、税金に加えて政府への多額の寄付を強制した。

さらに国債を発行して、青幇をセールスマンにして、あらゆる人間に売りつけた。

国債と寄付と融資が払い戻されるとは誰も期待しなかったし、その通りになった。

チャーリー宋の息子の宋子文が財務大臣になったが、強要された融資の引き受けを拒否したため、蔣介石と不仲になった。

そこで孔祥煕と宋靄齢が説得し、以後の子文は介石のイエスマンになった。

蔣介石と杜月笙は兄弟分で、完全に依存し合っていた。

その親密さを物語る一例として、1921年11月に介石が妻を離縁して、陳潔如と結婚した事実がある。

この結婚の前、潔如は杜月笙の持ち物で、歌妓だった。

おそらく彼女は、2人の男の結びつきの具体的な表現だった。

だが蔣介石は、宋家の娘に心を移し、1927年12月に陳潔如を捨てて宋美齢と結婚した。

宋美齢は、夫の介石に「もはや青幇に用心棒代など払うな」と進言した。

2人が新婚旅行から帰った直後、介石の留守中に、美齢は杜月笙に拉致された。

杜月笙は、宋子文に話をつけに来るよう求め、子文は応じて、引き続き用心棒代を支払うことになった。

杜月笙との親しい関係を通して、蔣介石の政府はアヘン・ビジネスの収入に大きく依存する事になった。

蔣介石が指導者になった時、最初にやった事の1つは、宋子文の助けを得て、政府にアヘン専売の機関を作ることだった。

それは「国家反アヘン局」と名付けられ、表向きは厳しい統制でアヘン常用者を減らすとされたが、でたらめだった。

このアヘン独占は成功し、かなりの利益をあげたが、やがて浙江省と江蘇省の杜月笙がケシ栽培している地域に及んだ。

さらに上海の月笙が仕切るアヘン取引も侵害し始めたので、月笙が文句を言うと、介石は国家反アヘン局を解散した。

介石は同局を「国家アヘン禁止委員会」として再建したが、秘密結社と結託して莫大な利益を上げた。

1930年に天候不順でケシの収穫量が減ると、宋子文・財務大臣は杜月笙が輸入した700箱のペルシア産のアヘンを売り、子文らはかなりの手数料を稼いだ。

杜月笙の製造したヘロイン(アヘンから作られるもの)は、少なくとも半分がフランスに輸出された。

上海のフランス租界の警察署長で、黄金栄(同警察の刑事部長)の直接の上司であるエチエンヌ・フィオリは、コルシカ島の出身でマフィアの「ユニオン・コルス」のメンバーだった。

エチエンヌとフランス総領事のムッシュー・ケクランは、杜月笙からしょっちゅう売春婦と賄賂を提供されていた。

ハノイ、サイゴン、マルセイユを経由して、パリまでヘロインを運ぶ段取りをつけたのは、エチエンヌ・フィオリだった。

エチエンヌを通して、フランスの政治家や官僚にも賄賂が支払われた。

しかし杜月笙が密使として顧維鈞(ウェリントン・クー)の妻をパリに送り、交渉したにも関わらず、フランス政府は上海の情勢を調査すると表明した。

月笙はこれを裏切りとして、1933年にエチエンヌ・フィオリとムュシュー・ケクランの送別会で毒を盛った。

蔣介石は、紙屑同然の国債の発行、アヘン・ビジネスなどの稼ぎに加えて、多額の援助金を外国から受けて、その大半を着服していた。

資金を洗浄する目的で、介石は1933年に自身の銀行を創設した。
これは表向きは農民のための銀行とされ、「中国農民銀行」と命名された。

共同租界の外国人たちは、これを皮肉って「アヘン栽培者銀行」と呼んだ。

この銀行の総支配人は、ウェリントン・クーの親戚のY・C・クーだった。

同行は、それ自身の紙幣も発行し、資金が底をつくと介石は印刷を任せているアメリカン・バンクノート社に注文を出した。

蔣介石と杜月笙は、国民党軍を強化するために、外国から兵器を購入した。

アメリカの最新飛行機であるカーティス・ホークⅡとⅢを120機買い、他にもイギリスの戦闘機やソ連の飛行機を買った。

蔣介石は、イタリアのムッソリーニの黒シャツ党と、ドイツのヒトラーの親衛隊の成功を見て、「青シャツ党(藍衣社)」を創設した。

藍衣社の任務は、共産党員や言いなりにならない官僚などを監視したり殺す事だった。

1937年からの4年間に、藍衣社は親日の上海市長を含め、少なくとも150人を殺害した。

藍衣社のメンバーは1万人おり、全員が黄埔軍官学校にいる青幇の将校から訓練を受けていた。

毛沢東の率いる共産党が勢力を拡大すると、蔣介石の国民党政府は弱体化した。

そこで介石は、国民党・左派の広州の汪精衛(汪兆銘)と同盟を結んだ。

1934~35年にかけて、共産党は長征をして11の省を通ったが、その間ずっと毛沢東は地方の秘密結社との関係を促進した。

蔣介石が都市部でやった様に、沢東は地方の秘密結社を利用した。

沢東が介石と違うのは、犯罪行為に一切関わらなかったことだ。

ただし秘密結社が共産党軍にわたす軍資金は、ゆすりなどで集金したものであった事は言っておかねばなるまい。

1930年代に蔣介石の国民党政府が道路と鉄道の建設を始めると、秘密結社が契約に割り込んできた。

すでに莫大な政府の借金は、さらに膨らんだ。

大多数の中国人にとっては、こうした開発の恩恵はなかった。

農民や苦力が求めていた、地代の切り下げや教育の改善といった改革は、都市部以外では何一つ実現しなかった。

ケシ栽培は、浙江省、山西省、雲南省、四川省では野放し状態で、杜月笙は莫大な利益を上げ続けた。

月笙はアヘン常用者だったが、1930年代の半ばに国際連盟の代表として反アヘンの闘いをしたイローナ・ラルフ・スーは自伝『鱶鰭(ふかひれ)と栗』で、月笙に会見した時をこう書いている。

「杜月笙は痩せこけており、シミだらけのガウンに形の崩れたスリッパを履いていた。

顎のない顔、大きな耳、酷薄そうな唇の間からのぞく黄ばんだ歯。

アヘン常用者に特有の病的な顔色。

彼は足をひきずり、首を左右に物憂そうに向けて、誰かに尾けられてないかと確かめながら、やって来た。

彼の目はどんよりして死んでいた。私は身震いした。

彼はだらんとした冷たい手を差し出したが、アヘンのシミの付いた褐色の爪が生えた、大きな骨ばった手だった。」

当時の杜月笙は、蔣介石が直々に任命した国家アヘン禁止委員会の長だった。

月笙は「アヘン絶滅のために全力を傾注している」と主張し、イローナが「それは嘘だ」と言うと拳でテーブルを叩き、彼のガードマン達が銃に手を伸ばした。

だが、アヘン・ビジネスを展開していたのは、日本も同じだった。

日本は大量のアヘンを入手して、天津などで、時には日本大使館内で、ヘロインを生産していた。

日本は、アヘンで中国を弱体化させて、占領し易くしていたのだ。

杜月笙は、アヘンを日本人にも売っていた。

1934年にインフレ率が高まり経済危機になると、蔣介石はすべての銀行が固定資産の4分の1を政府債に投資するように法律をつくった。

言う事を聞かない銀行に対しては、政府がそれを乗っ取る手段に出た。

その非情さから、「上海の銀行大クーデター」と呼ばれた。

中国銀行の総支配人で、強力な交通銀行の実質的なオーナーでもあった張嘉璈は、蔣介石と兄弟分の関係だったが、それでも安全ではなかった。

ことカネがからむと、兄弟分もへったくれもなかったのだ。

張嘉璈はロサンゼルスに移住し、カリフォルニアの某大学で経済学を教えた。

翌35年に、蔣介石は銀本位制をやめて、独自の法定貨幣を発行することにした。

通貨準備委員会のメンバーには、宋子文、宋子良、杜月笙が入っていた。

実のところ、銀行界の全体が、カルテルによって運営されていた。

孔祥煕は、中国中央銀行の理事で、工業銀行のオーナーだった。

宋子文、宋子良、宋靄齢は、交通銀行、中国中央銀行、広州銀行などの理事だった。

杜月笙は、中国銀行や通商銀行などの理事で、金融界のボスなのでしばしば「上海バンカーズ」と集合名詞で呼ばれた。

中滙銀行は、月笙の私設銀行で、上海のフランス租界にオフィスがあった。
フランス租界にあれば、中国の銀行法は及ばない。

1937年7月7日に盧溝橋事件が起きて、日中の全面戦争が始まった。

日本軍の進出は手際がよく、北京と天津は数週間で陥落した。

38年3月には、日本軍は中国北部の大半を征服し、杭州、広州、海南島を含めて、広東省の大部分と広西省の沿岸部を占領した。

37年の末に、蔣介石の国民党政府は南京から逃げて、重慶へ政府を移した。

37年12月13日に、日本軍が南京の市内に進軍し、朝香宮(皇族の鳩彦のこと、彼は司令官だった)の命令で、あの悪名高い南京大虐殺を始めた。

共産党の毛沢東は1936年の時点で、蔣介石に働きかけ、協力して日本軍と戦うことを提案していた。

しかし介石はそれを受け入れず、部下の張学良によって軟禁された(西安事件)。

日本軍が37年に満州から進軍してくると、国民党(蔣介石)と共産党(毛沢東)の協力(第二次の国共合作)が実現し、共産党軍は国民党軍に編入された。

介石は、共産党が重慶に代表部を置くことを認め、共産党が華南の軍を新四軍に再編成するのも許した。

新四軍のおかげで、毛沢東は中国の中心部に足場を得た。

この時期のある段階では、中国には競合する5つの政府があった。

国民党政府は重慶に、共産党政府は延安に、日本の傀儡の汪精衛政府は南京に、徳王の政府が内モンゴルの綏遠に、新ソビエトの自治政府が新疆のウルムチにあったのだ。

苦境に立たされた蔣介石を救ったのは、日本の行動だった。

日本が1941年に真珠湾攻撃をすると、米英ソが蔣介石政府を支援し始めたのだ。

さらに米ソは先を見据えて、共産党政府も支援した。

秘密結社には日本軍と組んだものもあり、汪精衛が1940年に南京に親日政府をつくった時は、秘密結社の応援があった。

しかし地方では、大半の結社が日本の占領に抵抗した。

「軍事統計局」という名の蔣介石政府の軍事秘密機関は、秘密結社の大物の戴笠がボスで、秘密結社のメンバーを機関員にしていた。

戴笠は杜月笙を、アメリカの諜報機関「OSS」の中国担当であるミルトン・マイルズに紹介した。

ミルトンと戴笠は、1943年に「中米合作社」を創設し、戴笠が長になり、ミルトンが副長になった。

中米合作社は、重慶の近くにキャンプをつくり、2千人以上のアメリカ人にゲリラ戦の訓練をした。

その教官の多くは、元黄埔軍官学校の士官で、秘密結社のメンバーだった。

1937年の末、上海が日本軍の手に落ちる直前に、杜月笙は香港に逃げた。

その後もしばしば中国本土に出掛けて、蔣介石にアドヴァイスした。

日本軍が上海を占領すると、上海の秘密結社たちとの間に「戦争に首を突っ込まない限り、秘密結社のビジネスに干渉しない」との協定が結ばれた。

1941年の12月中旬、日本軍が香港入りする直前に、杜月笙は重慶に逃げた。

月笙は手下を上海に集めて、破壊活動をして抗日戦を続けた。

その一方では、上海で日本人のために売春宿を経営していた。

杜月笙の権力はついに衰え始め、戦争中に彼の上海株式取引所は閉鎖された。

代わりに汪精衛が、同じ建物で自分の取引所を始めたが、日本の敗戦後に閉鎖された。

その後は、中国銀行、交通銀行、中央銀行の3行によって、独立した取引所が創設された。

日本が負けた後、蔣介石と毛沢東は話し合いをしたが、失敗に終わって中国は内戦に入った。

杜月笙は、蔣介石を助け続けた。

1949年に共産党軍が上海を落そうと迫ってきた時、蔣介石は杜月笙に大胆な提案をした。

中国銀行から金を略奪しようと言うのだ。

蔣介石政府が貯めていた金は、すでに半分が宋一族と孔一族が着服してしまっていた。

残りの半分は中国銀行の金庫室にあった。

介石は、上海の港に一隻の貨物船を係留させたが、それには選り抜かれた水兵が乗り込んでいた。

銀行の幹部は口止め料をもらうか、青幇に脅されており、金庫室にしまわれていた金が全部、青幇の兵隊によって銀行から船まで運ばれた。

船は台湾へ出港し、そこには蔣介石も乗っていた(蔣介石政府の台湾への脱出)。

杜月笙は、資産を香港に移したが、香港警察はそれを見逃した。

1949年に中華人民共和国が樹立されると、毛沢東は使者を香港へ送り、月笙に「中国に戻って協力するように」と求めた。

用心深い月笙は断った。

杜月笙は1951年8月16日に死んだ。

共産党が中華人民共和国をスタートさせると、秘密結社たちは厳しい締め付けにあった。

アヘン取引、売春、恐喝は、「反革命な行い」「帝国主義的だ」として禁じられた。

地方の秘密結社は、ほとんどが解散した。
中国に残った秘密結社の幹部は、多くが処刑された。

逃げた者の多くは台湾に渡り、蔣介石の下で働いた。

毛沢東は、結社をつくる事は反革命だとして禁じた。

沢東は、秘密結社が行ってきた中国からの略奪にストップをかける必要があった。
だから秘密結社のビジネスに攻撃を仕掛けて、厳重に取り締まった。

共産党が中華人民共和国を建国して3年で、アヘンは完全に中国社会から無くなって、中国は数百年ぶりに「クリーン」になった。

これは驚くべき手柄だった。

アヘン常用者は同情をもって扱われ、農民はケシの代わりに穀物を栽培するよう命じられた。

アヘンのディーラーと売春宿の経営者は、政治改造所に送られるか、処刑された。

アヘン窟のオーナーは政治教育のため労働改造所へ送られ、大勢がそのまま戻らなかった。

売人と取引業者は再教育しても手遅れと見なされ、簡単な裁判の後に銃殺された。

処刑された者の大半は、秘密結社のメンバーだった。

1945年に蔣介石から、「秘密結社のメンバーを動員して共産党と戦え」と命じられた国民党の幹部に、葛肇煌がいた。

彼は、広州の全ての秘密結社をまとめるように指示され、「五州華僑洪門」を組織してボスにおさまった。

彼はそれまでは犯罪的な結社とは繋がりを持たなかった人で、秘密結社のメンバーが共産党軍へゲリラ戦を行うことを期待した。

1947年に葛肇煌は、広州の秘密結社を「洪発山忠義会」という組織に糾合した。

その入会式は、孫文の写真が掲げられ、国民党への服従を宣誓した。

蔣介石はこの組織に、香港で騒乱を起こさせようとした。
介石は、香港を新たな上海にする夢を、死ぬまで持ち続けた。

洪発山忠義会は、14というコードネームが付けられたが、やがて「14K」と呼ばれ始めた。

香港には様々な結社が共産化した中国から逃げて来たが、勝ち残ったのは「和勝和」「義安」「14K」だった。

香港の九龍城砦は、元来は壁に囲まれた小さな村で、1898年に新界がイギリスに譲渡された時、その条約中の曖昧な文言のせいで九龍は争いの的になり、それは1984年まで続いた。

そこでは香港警察の権限があやふやなので、犯罪者が逃げ込む場所となり、世界でも悪名高い犯罪ゲットーになった。

14Kは、中華人民共和国ができると香港に逃げて来たが、すぐに香港の結社とギャング抗争を始め、弱い結社を吸収して2年でメンバーは1万人に膨れ上がった。

ボスの葛肇煌は1953年に死んだが、その後に14Kは激しい内紛が生じた。

1955年になると、14Kは香港および東南アジアに8万人のメンバーを擁していた。
ただし、中には無理やりに入会させられた者もいた。

彼らはラオス、タイ、ビルマにまたがる山中、いわゆるゴールデン・トライアングルで生産されるアヘンを買って、香港や東南アジアで売り始めた。

1963年に毛沢東は、秘密結社たちを傘下に収めようとした。

1958年の「大躍進」の政策で大失敗した結果、59~63年に3千万人が餓死していた。

だから沢東は、得られる限りの協力が必要だったのだ。

中国の周恩来・首相と台湾の蔣介石・総統の秘密会談が、張治中の仲介で持たれて、そこには介石の息子・経国も出席した。
(この会談は無かったという説もある)

会談は厦門の南の東山島で開かれ、中国の統一が話し合われたという。

だが、お互いの領分を侵さないという了解に達するのが精一杯だった。

(2021年8月29日、9月4~6日に作成)


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