タイトル中国における共産党の成長と、国民党と共産党の内戦

(『日中戦争全史・上巻』笠原十九司著から抜粋)

国民革命軍の司令官である蒋介石は、1927年4月12日に「四・一二の反共クーデター」を行い、それまで結んでいた共産党を大弾圧した。

これがために、第1次・国共合作が崩壊した。

(※国共合作とは、国民党と共産党の共闘をいいます)

その後、国民革命軍(国民党の軍)にいる共産党員と共産党シンパは、27年8月1日に江西省の南昌において武装蜂起し、国民党軍と戦うことを宣言した。

現在の中国では、この8月1日を人民解放軍の建軍記念日にしている。

いっぽう湖南省では、毛沢東らが農民を組織して27年秋に武装蜂起し、地主から収穫物を取る「秋収暴動」を行ったが、失敗した。

沢東らは残った部隊を率いて、湖南省と江西省の境にある井崗山に入り、革命根拠地を建設した。

これに上記の南昌で蜂起した共産党軍が合流し、「中国労農紅軍」が生まれた。

中国では赤色を「紅色」と表記する。中国労農紅軍は、略して「紅軍」と称した。

共産党のつくった革命根拠地では、紅軍が地主の土地を没収し、農民たちに土地を分配する「土地革命」を行った。

紅軍は、ゲリラ戦を展開して革命根拠地を増やし、ソビエト革命が華中・華南で進められた。

紅軍は、農民の立場に立った思想と、それまでの軍隊に見られない厳正な規律をもっていたので、農民たちに支持された。

各地で樹立したソビエト政権(革命根拠地)を統合するため、1931年11月に江西省の瑞金を首都とする「中華ソビエト共和国・臨時中央政府」(主席は毛沢東)がつくられた。

各地のソビエト政権(革命根拠地)は、ソ連をモデルにして政治を行った。

中華ソビエト共和国の拡大は、蒋介石の率いる国民政府にとって最大の障害となった。

そこで介石は、1930年代に入ると「安内攘外」(国内の共産党を倒してから日本と戦う)の政策を掲げて、「剿共戦」を5次にわたって行った。

剿共戦は、ソビエト地域を包囲攻撃するもので、「囲剿」と呼ばれた。

1933年10月から始まった第5次の囲剿では、100万人の大軍で総攻撃をかけた。

追いつめられた中華ソビエト共和国の指導者たちは、34年10月に首都の瑞金を放棄して、江西省を脱出して、紅軍10万と共に大移動を開始した。

これを「大長征」あるいは「長征」という。

共産党指導部と紅軍は、1.2万kmを踏破して、35年10月に陝西省の北部にある革命根拠地にたどり着いた。

出発時に10万人いた紅軍は、1万人まで激減していた。

その後、「革命の聖地」と言われることになる延安を中心に、陝北ソビエト政権が築かれた。

1935年になると、日本の関東軍と支那駐屯軍が「華北分離の工作」を急速に進めた。
それを見た中国国民は、「華北が第2の満州国になる」と危機感を高めた。

1935年5月に映画の主題歌となった「義勇軍行進曲」が大ヒットし、抗日戦争の間、広く歌われる事となる。

この曲は、中華人民共和国が誕生すると国歌になった。

現在はオリンピックなどで国歌が流れるが、義勇軍行進曲は「立ち上がれ、奴隷となることを願わぬ人々よ」で始まり、「敵の砲火に向かって進め」で終わる。

ここにある「敵の砲火」とは、日本軍の砲火である。

中国共産党は1935年8月1日に、「抗日救国のために全同胞に告げる書」(八・一宣言)を発表し、国民党との内戦を停止して、抗日で一致し、統一戦線を編成するよう呼びかけた。

しかし蒋介石の率いる国民政府は、「安内攘外」(国内の共産党を倒してから日本と戦う)の政策を採り続けて、宋哲元に冀察政務委員会を設置させ、日本に対し宥和政策を採った。

蒋介石は、日本に宥和政策を採るだけでなく、学生や民衆の抗日運動を弾圧した。

これに怒った北京と天津の学生自治会は、35年11月1日に「抗日救国のために自由を求める宣言」を発表し、18日には北平大中学生連合会(北平学連)を結成した。

同年12月9日に北京の学生はデモ行進したが、警官隊は警棒とポンプ水で対応した。

これに抗議した北平学連の大学と中学は、いっせいにストに突入した。

そして12月16日に再びデモ行進をした。

この2回の学生デモへの弾圧で、約500人が負傷し、50~60人が逮捕された。(一二・九運動)

中国共産党は、学生の間で支持者を増やし、36年2月1日に北京の学生たちは「中華民族解放の先鋒隊」を組織した。

この組織は、1年後には6千~7千人にまで増えた。

上海でも、文化人・知識人が283人の連名で「上海文化界の救国運動宣言」を発表し、それをきっかけに抗日救国運動が広がった。

救国運動は全国に広まり、36年6月1日に全国の代表が集まって、「全国各界の救国連合会」が発足した。

救国運動が高まると、国民党と共産党が内戦を止めて一致して抗日を行う、統一戦線を求める声が強まっていった。

しかし蒋介石は、相変わらず「安内攘外」に固執し、共産党の撲滅戦(剿共戦)に傾注した。

それどころか、共産党の力が増してくるのと、日本が中国の混乱を見て増派するのを懸念して、36年11月23日に「全国各界の救国連合会」の7人の指導者を逮捕した。(抗日七君子の事件)

(2020年7月4日に作成)


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