(『日中戦争全史・上巻』笠原十九司著から抜粋)
二・ニ六事件の衝撃に日本が揺れていた1936年3月に、日本海軍は長谷川清・海軍次官を中心にして、南方進出を検討し、4月ごろに「国策要綱」を作成した。
これは、海軍が東南アジアに進出し、とりわけ石油を獲得するためにオランダ領インドへ進出する事を目指すものだ。
英米との戦争に備えて、軍備拡充を目指すものだった。
同年6月には、「帝国国防方針」の改定が行われたが、対ソ戦を第一目標にする陸軍と、対米戦を第一目標にする海軍が対立し、妥協して『南北併進論』が決定した。
その内容は次のとおり。
「日本帝国の国防は、我が国と衝突する可能性が大にして強大国の米国と露国を目標とする。
これに併せて、支那と英国に備える。
このため、国防の兵力は東アジア大陸ならびに西太平洋を制するものを要す。」
この国防方針に沿って、「用兵綱領」では陸軍は兵力50師団と飛行機142中隊の増強を計画した。
海軍も主力艦12、航空母艦12、潜水艦70隻、航空兵力65隊などの増強を計画した。
1936年8月7日に、広田弘毅・内閣はこの国防方針の改定をそのまま飲み、軍備拡充を定めた「国策の基準」を決定した。
この国策基準を根拠に、戦艦大和や武蔵などを1941年までに完成するという第3次・補充計画が立てられた。
そしてこの計画(㊂計画といわれた)の達成により、対米戦争が可能と判断して、アジア太平洋戦争に突入していくのである。
実のところ海軍の南進策は、海軍が予算を獲得するために、逆算的に導いたものである。
海軍の首脳にとっては、対米戦争の危険さよりも、陸軍に対抗して予算を増やすほうが重要だった。
この時の海軍首脳は、皇族の博恭(伏見宮)が元帥兼軍令部総長であり、嶋田繁太郎が軍令部次長、永野修身が海軍大臣、長谷川清が海軍次官だった。
広田弘毅・内閣は、1936年11月27日に予算閣議を開いたが、わずか1時間20分で軍部の要求をのんだ予算案を承認した。
37年度の軍事費は、陸軍省が7億2800万円、海軍省が6億8200万円となり、陸海を合わせると前年度から3.5億円の増額となった。
これに加えて、上述の軍拡計画の費用として、陸軍は13.9億円、海軍は11.7億円が計上された。
この軍事予算は、公債の大増発と大増税でまかなわれる事になったが、馬場鍈一・蔵相は「準戦時の経済体制の採用である」と説明し、『馬場財政』と呼ばれた。
二・二六事件を軍部が利用して強権体制を築いた結果、『南北併進論』が決定して、陸軍は北進論(対ソ戦)、海軍は南進論(対米戦)と、それぞれ勝手に作戦計画を進める事になった。
海軍が南進論を国防方針に決めさせた事は、日本がアジア太平洋戦争に進むターンニング・ポイントとなった。
すでに日本政府は、海軍の主張に基づいて1934年12月にワシントン海軍軍縮条約から脱退し、36年1月にロンドン海軍軍縮条約からも脱退していた。
海軍は、国際的な軍縮条約から抜けて足かせを外した上で、南進論を国策にさせ、軍備大拡張の予算を認めさせたのである。
(2020年6月28日に作成)