タイトル海軍は華中・華南で戦争を始めようとする、北海事件など

(『日中戦争全史・上巻』笠原十九司著から抜粋)

日本海軍には、空中戦や空からの爆撃を重視する、「航空派」がいた。

その中心は山本五十六で、1935年に航空本部長に就き、航空兵力の開発をした。

日本は第一次大戦で戦勝国となったが、国連からドイツ領だった南洋諸島の委任統治を託された。

(※ドイツは敗戦国なので、自領だった南洋諸島を、国連の委任統治という形で、日本に奪われたのである)

日本海軍は、南洋諸島を基地として開発した。

もし対米戦争になったら、そこから爆撃機を発進させて、太平洋を西進してくるアメリカ艦隊を攻撃しようと考えたのである。

山本五十六は、陸上基地から発進する長距離攻撃機の開発を、三菱重工にやらせた。

その長距離爆撃機は1936年に完成し、その年が天皇制の暦年では紀元2596年だったので、下2桁をとって「九六式陸上攻撃機」(略称は中攻)と名付けた。

三菱重工は同年に、「九六式艦上戦闘機」も完成させた。

中攻が完成した頃になると、海軍の青年士官の間では「戦艦無用論」が高まった。

これに対し海軍の「艦隊派」(戦艦や巨砲を重視する派)の幹部は、抑圧をした。

山本五十六は青年士官たちに、「頭の固い鉄砲屋(砲術関係者たち、つまり艦隊派)の考えを変えるには、航空機が実績をあげるしかない」と語ったという。

完成した九六式陸上攻撃機を、実戦に投入する機会を狙っていたのだ。

いっぽう艦隊派も、海軍の縄張りである華中や華南で戦争を起こし、満州事変を起こして莫大な臨時軍事費を得た陸軍に続いて、巨額の臨時軍事費を得たいと思っていた。

つまり、日本海軍の航空派も艦隊派も、中国と戦争するチャンスを狙っていた。

1936年9月3日に、海軍の管轄域である華南の広西省・北海で、日本人が中国人数人に殺害される「北海事件」が発生した。

第3艦隊・司令官の及川古志郎は、大規模な武力行使を計画し、9月15日に北海および対岸の海南島に派遣した艦船でもって「第3艦隊・南派遣隊」を編成した。

同15日に、海軍・軍令部は『北海事件の処理方針』を策定し、「中国・国民政府に排日の全面禁止を要求し、実現されなければ北海と海南島を占領する」と決めた。

博恭(伏見宮)・軍令部総長は、36年9月21日に佐世保の海軍陸戦隊の派遣を決定し、陸軍・参謀本部と連絡をとった。

しかし翌日に参謀本部の石原莞爾から「陸軍は反対である」と回答が来た。

結局、北海事件は、派兵に陸軍・参謀本部の同意が得られず、抗日を煽っていた広西派の軍隊(西南軍閥ともいわれた)が撤退したため、9月末には解決した。

だが『海軍中攻史話集』には、北海事件の時に、中攻機(九六式陸上攻撃機)などが渡海して爆撃する態勢をとった事が語られている。

北海事件が収束しつつあった36年9月23日に、今度は上海において、「日本水兵の射殺事件」が起きた。

日本人の水兵3人が上海の租界を歩行中、中国人に撃たれて、1人が即死、2人が負傷した。

これに対し海軍・軍令部は、強硬な対処を決定し、出撃の準備を命じた。

すでにこの時の海軍は、軍令部次長は嶋田繁太郎、海軍大臣は永野修身、第3艦隊の司令長官は及川古志郎と、皇族の博恭の寵臣で固められていて、強硬策が容易に決定できる体制が出来上がっていた。

(※博恭は対米などで強硬論者である)

海軍の中央機関である軍令部と海軍省は、36年9月に『対支時局の処理方針』を策定した。

永野修身・海相は、10月13日の広田弘毅・内閣の閣議で、この方針を閣議決定するよう求めたが、陸軍が慎重論を主張し、海軍の主張は通らなかった。

それでも海軍中央は、37年1月8日に『対支時局の処理方針』を正式に決定し、飛行機の基地の整備や、飛行機部隊の臨戦態勢の継続を決めた。

鹿児島県の鹿屋航空隊では、この方針に基づいて37年2月から長距離飛行の訓練を行った。

鹿屋基地から台湾の屏東飛行場へ、さらに大連基地へと、中攻機で長距離飛行をしながら、燃料消費や無線電波の到達距離を調べ、搭乗員の疲労度も検査した。

1937年8月14~15日に日本海軍が行った、長崎や台湾北部から出撃して渡海しての南京や上海への爆撃は、日本の一般国民の目には突然の決行に見えた。

だが実は、事前に準備・訓練した上で、決行されたのである。

これは1941年12月の真珠湾攻撃も同じで、国民は臨時ニュースで知らされ驚いたが、1年も前から計画され準備・訓練されていた。

国民には軍事機密として知らされなかっただけだ。

海軍中央(軍令部と海軍省)は、1936年の時点で、満州事変を起こして莫大な臨時軍事費を獲得した陸軍を真似て、臨時軍事費を獲得する為に、自らの縄張りの華中・華南で中国と戦争を始めようとしていた。

36年には、陸軍の反対で不成功に終わった。

しかし37年に陸軍が盧溝橋事件を起こすと、海軍は好機到来と見て、日中の和平工作を破綻させるために大山事件(37年8月9日)を起こし、第2次・上海事変を発動させ(8月13日)、8月15日には中国政府の首都である南京を渡海爆撃するのである。

その詳細は、別ページに記載する。

(2020年6月28~30日に作成)


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