(『渡辺錠太郎伝』岩井秀一郎著から抜粋)
1936年2月26日の午前6時、東京・杉並区荻窪にある渡辺錠太郎の自宅前に、1台の軍用トラックに乗って、陸軍の兵士が約30名ほど現れた。
渡辺錠太郎は、陸軍の3長官の1つである、教育総監をしていた。
武装した兵士たちは、正門から襲撃を開始した。
兵を率いていたのは、高橋太郎・少尉と、安田優・少尉である。
襲撃のために用意された武器は、「軽機関銃が4挺、小銃が10挺、拳銃が若干」だった。(軍法会議の判決理由より)
彼らはすでに、斎藤実・内大臣の自宅を襲って殺害しており、第2の目標とされたのが渡辺錠太郎だった。
錠太郎の自宅は敷地面積が320坪もあり、南北に長い土地だった。
余談になるが、渡辺錠太郎の邸宅は、3年半前に新築されたばかりだった。
その邸宅を設計したのは陸軍技師の柳井平八で、平八は箱根の高級旅館「強羅花壇」や、陸軍士官学校の設計者として知られている。
ちなみに「強羅花壇」は、元は陸軍・参謀総長を長くつとめた皇族・戴仁の別荘だった。
錠太郎は自宅を建てるまでは借家に住んでいたが、その家は広大で、彼の給料(月額550円)の半分以上になる300円が家賃で消えていた。
(※こういう事を知ると、戦前の高級軍人や皇族が特権階級だったのが、よく分かる)
有馬頼義の書いた『二・二六暗殺の目撃者』には、渡辺錠太郎の長女・政子の証言が載っている。
政子は当時31歳で、結婚して渡辺邸のすぐ近所に住んでいた。
「朝6時頃、突然にけたたましい銃声が聞こえて、私の家でも大騒ぎになりました。
そのうち父の家の女中から電話があり、おびえた声で『大変でございます』と言い、すぐに切れてしまいました。
私は父の家に駆け付けねばと考えましたが、再び女中から電話があり、『ご主人さまはお亡くなりになりました』と言ってきました。
兵隊が引き上げていくのを見極めてから、父の家に駆け付けましたが、その間はものの5分から10分でした。
母に会うと、『なぜもっと早く来てくれなかったか』とばかり言いました。
父の家には家族の他に、2人の憲兵と、2人の女中がいました。」
渡辺邸の近所に住んでいた作家の井伏鱒二は、『荻窪風土記』にこう書いている。
「二・二六事件の日、朝刊を入れる音がして取りに起きて、再び横になったところ、花火をあげるような音がした。
いつも駅前のマーケットで安売りする日は、朝早く花火の連続音がした。
今日は早くからマーケットを開けるんだなと独りで言って、また寝てしまった。」
近所の人々が銃声を聞いたという証言はいくつもあり、かなり広範囲に銃声が鳴り響いたことが分かる。
襲撃に参加した梶間増治・歩兵伍長の尋問調書では、「午前6時頃」に渡辺邸に到着し、襲撃が終わったのは「6時10分ごろ」とある。
襲撃の時間は10分程度だった可能性が高い。
再び政子の証言を取り上げる。
「母は早起きの人で、あの日も起きて女中たちとお勝手にいたと申してました。
(襲撃の)兵たちは正門をとび越えて邸内に入り、玄関に機関銃を置いて玄関のカギを破るため弾を撃ち込んだのです。
玄関の次の扉にもカギがかけてあり、兵たちはそれも機関銃で破ろうとした頃、邸内の2階にいた憲兵が応戦しました。
兵たちは玄関から入るのを諦めて、庭に回りこみ、雨戸の開いていた勝手口にやってきたのです。
そこにいた母は、兵たちをさえぎったのですが、さえぎりも効かず縁側づたいに父の寝室へ回り、そこに機関銃を据えて撃ったのでした。」
政子の次女である小林依子は、兵たちが勝手口(内玄関)から入ったとする通説に違和感があるらしい。
「私は当時すぐ近所に住んでいましたが、母(政子)などから『兵たちは南側の茶の間の縁側から土足で上がり込んできた』と聞いてました。」
襲撃側の安田優・少尉などの公判調書でも、勝手口という言葉はない。
再び政子の証言である。
「父(渡辺錠太郎)は、私の妹の和子を机の中に隠して、布団を盾代わりに使おうとしたのか丸くして、その陰に伏せの姿勢をとりました。
父は応戦してピストルを撃ったようです。
和子はまだオカッパの少女で、怖かったろうと思います。
オカッパ頭をおさえて伏せていたのです。
皮肉なことに、犯行に使われた機関銃は、父が必要性を説いて日本軍でも使うことになったものです。
父は第一次世界大戦をオランダで見て、帰国後にその採用を具申しました。
父の体に当たった弾は43発で、肉片が天井にまで飛び散ってました。
顔から肩にかけてはとどめの刀傷が1つ、後頭部にもとどめのピストルの1発が撃ち込まれて穴が開いてました。」
現場に呼ばれた戸村隆敏・外科医の死体検視の記録が残っている。
それを見ると、錠太郎はまさしく蜂の巣のような状態になっていた。
有馬頼義の書いた『二・二六暗殺の目撃者』には、現場にいた和子の証言が載っている。
「6時10分頃に、外で大きな音がして、となりに寝ていた父(錠太郎)はピストルを取り出して、私に『お母さんの所へ行きなさい』と言いました。」
和子は台所へ行って母に会ったが、母も女中も相手をしてくれない。
それで和子は父の寝室に戻った。
錠太郎は和子が戻ってくると困った顔をしたが、和子を机の陰に隠した。
再び和子の証言である。
「襲撃兵たちは機関銃を据えて、父に向かって撃ち出したのです。
父は横這いになりながら、ピストルで防戦しましたが、彼らは父の足を狙ったように思います。
父が動けないようにするためでしょう。
ふっと気がつくと、機関銃の音がやんでいました。
彼らはそれから、父に斬りつけたのです。
皆が居なくなった後に見ると、父が片手にピストルを持ったまま、畳の上に横たわっていました。
天井まで父の肉が飛んでいたのや、雪の中に点々と赤い血が落ちていたのを憶えています。
正直言って、5分か10分の出来事でしたから、私には何が起きたのか一切信じられなかったと言ったほうが本当でしょう。」
和子はその後、修道女となり、死ぬまでその職にあった。
二・二六事件の決起軍は、渡辺錠太郎の他にも、斎藤実・内大臣と高橋是清・大蔵大臣を殺害した。
また鈴木貫太郎・侍従長にも重傷を負わせた。
岡田啓介・首相も襲撃されたが、身代わりに秘書と護衛の警官が殺害された。
湯河原の旅館(光風荘)にいた牧野伸顕・元内大臣は、襲撃されるも逃れて、ここでも警官が殺害された。
決起軍に狙われた6人のうち、岡田啓介、斎藤実、鈴木貫太郎は海軍大将である。
渡辺錠太郎も陸軍大将である。
(※天皇、皇族、その側近たちが、軍の中枢でもあった事が、彼らの軍における階級から分かる。
つまり、日本の戦争責任は天皇たちに重くある。)
さらに言うと、高橋是清と斎藤実は元首相であった。
(2023年3月19日に作成)