(『渡辺錠太郎伝』岩井秀一郎著から抜粋)
1921年にドイツの保養地バーデン・バーデンにて、陸軍士官の永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次の3人が会合した。
この3人は陸軍士官学校の同期(16期)で、当時は3人共に少佐だった。
3人は一流ホテル・ステファニーに宿泊し、「日本陸軍の革新について議論した」と、後に岡村寧次は語っている。
寧次によると、陸軍における長州閥の打倒と、軍制改革(国民総動員の体制の確立)が会合の結論だった。
国民総動員の体制にすることは、永田鉄山の持論で、彼はいくつもの論文や講演で訴えている。
この3人に、東條英機や板垣征四郎らを加えて、1929年に「一夕会」が結成された。
ここから陸軍改革の大きなうねりが始まった。
一夕会が、長州閥に属さない改革派の将軍として担ぎ出そうとしたのが、荒木貞夫、真崎甚三郎、林銑十郎の3人だった。
この3人について、永田鉄山は次のように語っている。
「いずれも私心のない立派な人達で、お互いに諒解もあり、3人は一致した行動に出ることができる。
この3人なら信望があるから、統制がとれる。
まず荒木だが、股肱と頼む部下があり、偏狭な人が多く取り巻いているために、他人から誤解されやすい。
簡単に言えば、軍人以外にも極右の連中が近づく傾向がある。
次に林だが、股肱と頼む人はなく、相談相手も決まっていない。
また話のよく判る人で、他人の助言をよく容れる。
惜しむらくは、周囲に政治ブローカーが非常に多く、誤りやすい。
私を林派と言う人があるが、私は一度しか会ったことがない。
最後に真崎だが、全く子分のない人である。」
(原田熊雄の『西園寺公と政局 第三巻』から)
結局のところ、上の3人はそれぞれ陸軍のトップまで行ったから、永田らの見立てはある程度確かだったと言える。
しかしこの3人は、その後に仲違いしたし、さらに永田鉄山も同志だった小畑敏四郎と激しく対立した。
そして永田鉄山はその派閥争いの中で暗殺された。
一夕会の他にも、陸軍内にはいくつかの団体ができたが、その1つが1930年9月に結成された「桜会」である。
桜会の中心になったのは、参謀本部・ロシア班長の橋本欣五郎だった。
彼らも一夕会と同じく国家改造を目指したが、そのやり方はクーデターを起こす事だった。
そしてそのクーデター計画は1931年3月に発覚し、「三月事件」と呼ばれた。
「三月事件」とは、橋本欣五郎ら桜会のメンバーと、大川周明ら民間の右翼が共謀して、1931年3月に起こそうとしたクーデター未遂の事件である。
このクーデターは、陸軍大臣の宇垣一成を首相にして軍事政権を樹立しようとしたもので、武装蜂起を計画していた。
計画には、桜会のメンバーの他にも軍人では、小磯国昭・軍務局長、二宮治重・参謀次長、建川美次・参謀本部第二部長が関係した。
民間人の大川周明も加担した。
クーデターの具体的な内容は、「大川周明が大衆を動員して国会を包囲し、浜口内閣に辞職を迫って、宇垣陸相を首相にする」というものだった。
国会包囲では、警戒の名目で軍も動員されることになっていた。
だが、宇垣一成が変心したため未遂に終わった。
計画は事前に発覚した。
クーデターを計画したにも関わらず、事をうやむやにしたい軍が動いて、橋本欣五郎らの処分は軽微に留まった。
そのため欣五郎らは、すぐに再びクーデター計画を進めたのである。
1931年4月1日に、東京で陸軍の師団長会議が開かれた。
この時、菱刈隆・関東軍司令官、林銑十郎・朝鮮軍司令官、渡辺錠太郎・台湾軍司令官が、新橋の料理屋に招かれた。
招待したのは、橋本欣五郎・陸軍大佐である。
この時のことを、高宮太平の著作『軍国太平記』はこう書いている。
「橋本欣五郎は、『三月事件が失敗したから、今度は満州で事を挙げねばならぬ』と怪弁をふるった。
それに対し、林銑十郎は『もっともじゃ』とすぐに賛成した。
菱刈隆は、賛成か反対か分からぬことを言う。
渡辺錠太郎は、『軍人は天皇陛下の命令以外に行動をすべきじゃない』と、頭からはねつけた。
金谷範三の次には渡辺を参謀総長にしたいと、渡辺を買っていた橋本は、すっかり興覚めしてサジを投げた。」
この年(1931年)の9月に、関東軍は柳条湖事件を起こし、そこから満州事変に拡大した。
満州事変に対し、若槻礼次郎の内閣は「不拡大の方針」を採った。
それを見た桜会と大川周明らは、クーデターを目論み、後に「十月事件」と呼ばれた。
このクーデター計画では、若槻・首相を殺して、荒木貞夫・中将を首相にして軍事政権を樹立しようとした。
これが発覚して、橋本欣五郎らは逮捕された。
しかし、十月事件でも橋本欣五郎らの処分は譴責などに留まり、それが翌年に犬養毅・首相が暗殺される「五・一五事件」につながった。
なお、渡辺錠太郎は上に書いたクーデターやテロと無関係だったようで、彼は陸軍のどこかの派閥に属した形跡もない。
この時期にテロやクーデターの計画が頻発したのは、世相が影響していた。
1929年10月にアメリカのニューヨーク株式市場で大暴落が始まり、世界的な恐慌となった。
ところが日本の浜口雄幸・内閣は、翌30年の1月に金解禁を行った。
当時の日本は金融恐慌からやっと脱したところで、そこに金解禁と世界恐慌がきたため、経済は再び大きな打撃を受けた。
物価は暴落して、失業者は300万人に及んだ。
わけても深刻だったのが東北の農村で、米1石を生産するのに全国平均で26円かかるのに、米相場は14円まで下がってしまった。
赤字分は農民が借金で埋め合わせるが、できない農家は馬や娘を売るしかなかった。
(※当時はこうした時に政府が救済する法律は無かった)
売春窟に売られた娘たちはまだ10代半ばで、すぐに帰れるとの甘言で前借り3~5円のカネで売られていった。
金解禁を批判していた経済評論家の高橋亀吉は、日本の敗戦後にこう述べている。(『証言・私の昭和史1』から)
「物価は暴落し、輸出は増えない。特に農村は大変で、非常な疲弊だった。
五・一五事件(1932年)や二・二六事件(1936年)は、発端は金解禁にあったと思う。」
金解禁をした浜口雄幸・内閣の蔵相をしていた井上準之助は、これで恨みを買って、血盟団のテロで殺された。
国民の怒りをさらに煽ったのは、政治家の腐敗であった。
1926年には「松島遊郭の移転にまつわる汚職事件」、28年には「東京市会の4大疑獄」があった。
29年9月には「5私鉄の汚職」があり、前鉄道大臣の小川平吉が収賄で起訴された。
ついで賞勲局(勲章を与える部署)の局長が賄賂を受け取った「売勲事件」、山梨半造・陸軍大臣が収賄で逮捕される事件が起きた。
国民の窮状をよそに、政治家と資本家は腐りきっていた。
これが、一部の者に過激な行動を起こさせたのだ。
血盟団のリーダーだった井上日召は、自伝の中で当時の社会状況をこう述べている。
「当時は政党の全盛で、政友会と民政党の二大政党が対立して、交互に政権を獲得していたが、政治はちっとも上手く行かなかった。
彼らは党利党略のみを考え、国民生活を犠牲にして、財閥に奉仕した。
資本家は利潤のみを追求し、労働者や農民は酷く困窮し、庶民は退廃的な文化にふけっていた。
弊害は、元老や(天皇の)重臣といった特権階級にも及んでいて、彼らは政党や財閥を監視・是正する立場なのに、財閥と婚姻を通じて、利益を共にして結託していた。
このために君臣(天皇と国民)の間は阻隔され、国民は苦悩をどこに訴えるかの術を失った。」
二・二六事件を主導した磯部浅一は、1929年頃に「この国民の苦境を救うのは、もはや天皇陛下の大御心だけだ」と、酒席で涙を流しながら語っていたという。
(※この時代の憂国の者がおかしいのは、政治家や軍人や財閥の頂点にいるのが天皇なのに、天皇は違うと思い込んでいて、天皇だけは国民の窮状を言えば分かってくれると信じていた事である。
教育の影響なのだろうが、非常におかしな考え方で、勘違いも甚だしいものがある。
むしろ天皇家こそが、腐敗した政治で一番甘い汁を吸ったのである。
それは、当時の日本でずば抜けて天皇が土地も資産も持っていた事から明らかだ。)
前述の「三月事件」には、永田鉄山も絡んでいた。
当時の鉄山は、陸軍省の軍事課長で、上司は小磯国昭・軍務局長だった。
高宮太平は『軍国太平記』に、小磯国昭の話した事を書いている。
「三月事件の時、部下の永田鉄山に『こういう事(クーデター)をやる場合、軍はどう動いたらよいか』と尋ねた。
すると永田は、『非合法な方法で政権を握るのは、中南米あたりなら面白いが、日本で軍が中心になってやっても成就しません』と言う。
私は『しまった』と思い、全部をありていに話して、『君が1つ具体案を作ってみてくれ』と頼んだ。
永田は断ったが、強いて頼むと『それでは小説を書くつもりで書いてみましょう』と承知した。
2~3日経って、『小説を書きました』と持ってきたので見ると、良い案だ。
立案者の永田は、『(私のクーデター計画は)ここにこういう欠陥がある』と指摘してきた。
それで、まあしばらく預かっておく事にした。」
このクーデター計画書は、永田鉄山に返却されて、彼の金庫にしまわれた。
実物が存在しているが、その内容は政府要人に軍が脅しをかけつつ、できるだけ合法的に政権を奪取しようとするものだ。
このクーデター計画書は、後に永田鉄山にとって命取りとなった。
(2023年3月12~13日に作成)