(『満州帝国史』太田尚樹著から抜粋)
満州国・政府を取り仕切る「総務庁」を動かしていた岸信介が、満州を去ったのは1939年10月中旬だった。
彼は日本に呼び戻されて、阿部内閣の商工次官になった。
右腕の岸信介が去った後も、総務庁長官の星野直樹は8ヵ月間は在職した。
星野直樹は帰国後、第二次・近衛内閣の企画院総裁に就任し、東条内閣では内閣書記官長をした。
岸信介の叔父にあたる松岡洋右・満鉄総裁は、信介よりも2ヵ月早く内地(日本)に帰った。
満鉄総裁の座は、大村卓一、小日山直澄と続き、最後は山崎元幹で終わった。
満州国政府の打ち出した『第一次産業開発・5ヵ年計画』は、1941年7月に終了した。
続けて41年9月2日から、『第二次産業開発・5ヵ年計画』がスタートした。
統計を見ると一目瞭然だが、太平洋戦争が始まってからも、満州国の発電量や各部門の生産量は44年までは順調に伸びている。
満州は、冬は極寒の地である。
冬の満州の名物は、家々の煙突から昇る煙だが、1944年になると煙はすっかり細くなった。
それは満州の炭鉱で採れた石炭が、ほとんど内地に送られてしまい、家庭で使うオンドル用の石炭さえ配給制になったからだった。
石油とガソリンは真っ先に配給制となり、ガソリン車はアルコール度の高いパイヂョウ(白酒)を混ぜて使って、薄紫の煙を吐きながら走った。
太平洋戦争の末期になると、満州各地の鉱山で、日本陸軍の技術部が必死でウランの調査を行った。
これは原爆を製造するためだった。
日本が降伏すると、それと同時に新京(満州国の首都)に進駐してきたソ連軍は、満業・総裁の高碕達之助に向かって「まず欲しいのは石炭だ。だがその前にウランはどこにあるか」と尋ねた。
高碕達之助は自叙伝に、「日本人の生命財産と引き換えに、私はその鉱山の所在を教えた」と書いている。
達之助は、東洋製罐の創業者だが、1942年末に満業の鮎川義介・総裁の任期が切れて帰国したため、副総裁だった彼が総裁に昇格していた。
少し話を戻すが、1945年8月9日に、ソ連の大部隊が満州に雪崩れ込んできた。
それから6日後の8月15日に、大日本帝国は降伏した。
降伏の数日前に、満映(株式会社・満州映画協会)を経営する甘粕正彦は、満州興業銀行の口座から満映の貯金600万円を引き出し、満州国政府・総務庁からも200万円を出させると、社員に分け与えた。
この時に正彦は、「満映の施設を破壊することなく、満州と中国の人々に残すのです」と指示した。
正彦は8月20日に青酸カリを飲んで自殺した。
新京にソ連軍が入ってくると、すぐに掠奪が始まった。
高碕達之助によると、家具から衣服にいたるまで奪い、まとめて本国に送る徹底したものだった。
ソ連も、長引く戦争で物資が欠乏していたのである。
(※ソ連はナチス・ドイツに攻め込まれて死闘をし、第二次大戦中に2000万人の国民が死んだと言われている)
ソ連兵よりも、満州人からの掠奪のほうが悪質だったという。
これは、満州国の建国以来の積み重なった恨みがあったからだろう。
当時に満州国政府の総務長官(実質的には首相にあたる)をしていた武部六蔵は、シベリアに抑留されて、その後に中国で戦犯となった。
病気のため1956年に帰国が許されて、帰国して間もなく亡くなった。
協和会・会長の三宅光治は、陸軍中将だったからモスクワに連行されて尋問をうけたが、敗戦から2ヵ月後に死亡した。
死の事情は不明のままだ。
満州拓殖公社・総裁の斉藤弥平太は、第25軍の司令官を務めた経歴から中国共産党軍に逮捕され、行方不明のままとなった。
(※満州拓殖公社は、満州国の開拓を行う国策会社であった)
(満業・総裁だった)高碕達之助は言う。
「私を含め、満鉄・総裁の山崎元幹や、満鉄・副総裁の平島敏男が逮捕されなかったのは、ソ連がシベリア開発に我々の経営手法を参考にしたかったからだ」
満州国・総務次長の古海忠之は、1945年9月27日に逮捕された。
シベリアのチタとハバロフスクのラーゲリ(ソ連の強制収容所)で5年を送り、その後は中国にて戦犯容疑で13年を刑務所で過ごした。
日本に帰国後は、大谷重工業・副社長や東京卸売センター・社長などを務め、勲二等を授与されたが、これは岸信介の後援のおかげだった。
(※古海忠之は、自分の前に満州国・総務次長をしていた岸信介がアヘン売買など悪事をしまくっていた事を証言せず、自分が罪をかぶった。
帰国後の厚遇は、そのお礼である。)
岸信介は、1945年9月にA級戦犯の容疑で、日本で逮捕された。
だが48年12月24日に釈放となった
岸信介のアヘン売買の容疑は、GHQが調べるにつれ、同盟国イギリスが深く関与している事実が明らかになり、不問になってしまった。
(※イギリスは、アヘン戦争で勝った後から、ずっと中国でアヘン密売を続けた。
中国の蒋介石・政権や、中国を侵略した日本軍ともアヘン取引をしていた事は、数々の証言から明らかになっている。
ちなみに日中戦争の間も、中国の蒋介石・政権と日本軍は、裏でアヘン取引は続けていた。)
(満業・総裁だった)鮎川義介は、逮捕されたが、嫌疑不十分として20ヵ月で釈放された。
戦前・戦中に(義介の率いる)日産グループは、日本の15財閥の1つだった。
義介は釈放されると、「これからは石油エネルギーが産業の基幹になる」と読み、帝国石油と石油資源開発の社長に就任した。
さらに政界に進出して参院議員となり、岸信介・内閣では通産大臣になった。
高碕達之助も戦後に政界入りし、鳩山一郎・内閣では経済審議庁・長官と通産大臣に、岸内閣でも通産大臣と経済企画庁・長官および科学技術庁・長官を務めた。
(※つまり、満州国の利権を貪った人脈は、戦後も自民党を中心にして残ったのである)
(2022年8月29~30日に作成)