(『日中戦争全史・上巻』笠原十九司著から抜粋)
盧溝橋は、北平(北京)の南西15kmにある、永定河にかかった全長260mの橋である。
1937年7月7日に、盧溝橋の北の荒蕪地を演習場として、日本の支那駐屯軍の中隊(隊長は清水節郎)150人ほどが、夜間の軍事演習を行った。
演習地の南には、京漢線が通っていて、線路をわたれば宛平県城がある。
宛平県城は、東西640m、南北320mの城壁に囲まれた街で、中国軍・第29軍の部隊が駐屯し、日本軍は入城できなかった。
中国軍は、永定河の土手に壕やトーチカを築いていた。
日本の支那駐屯軍は、そのわずか数百mのところで、夜間演習を行ったのである。
日本軍の演習は、19時半に開始された。
この演習は、黎明攻撃の訓練であった。
黎明攻撃とは、夜間に密かに攻撃地点に接近して、夜の白むのを待って敵陣を襲うものである。
演習が終わりに近づいた22時40分頃に、中国軍の陣地の方向から数発の実弾が飛んで来た。
演習をしている中隊の清水節郎・隊長が部隊を集合させたところ、伝令役の志村菊次郎が行方不明だった。
節郎はこれを、一木清直・大隊長に報告した。
一木清直は、部隊を呼集して盧溝橋に出動させつつ、北京の牟田口廉也・第1連隊長に電話で連絡した。
廉也は、「戦闘隊形をとって中国側と強硬に交渉しろ」と命じた。
清直の大隊は、翌8日の午前2時すぎに、盧溝橋に到着した。
この時すでに、行方不明だった志村菊次郎は無事に帰隊していた。
一木清直は、中国軍の威嚇射撃を「不法射撃」と見なしており、明け方を待って中国軍・第29軍に厳重抗議する方針を採って、大隊は現場にとどまった。
すると午前3時25分ごろに、再び中国軍の陣地から銃声が起こった。
この射撃を不遜な行為と見た一木清直は、牟田口廉也に「膺懲のために攻撃したい」と電話で伝えた。
廉也は「やって宜しい」と戦闘許可の命令を出した。
そこで清直の大隊は、夜明けの5時30分に、壕にいる中国軍へ攻撃を始めた。
前年の豊台事件(盧溝橋の近くの豊台で起きた、日本軍と中国軍の小競り合い)の後に、牟田口廉也は「もし今後、支那軍に不法行為があったら、決して仮借することなく直ちに膺懲を加える」と訓示していた。
こうして、盧溝橋で日中の戦闘が始まった。
これが『盧溝橋事件』である。
NHKで1981年に放送された『歴史への招待、盧溝橋謎の銃声』によると、真相は次のとおりだ。
22時40分ごろの中国軍の射撃は、伝令の志村菊次郎が方向を誤り、中国軍の陣地に近づいたため発砲された。
3時25分ごろの銃声は、豊台へ伝令に出された清水節郎の中隊の2人が、盧溝橋に戻ったところ中隊が移動していたため、右往左往していたのを中国軍に射撃された。
月のない闇夜に、中国軍の陣地と数百mの距離で、黎明の奇襲攻撃の演習をしたこと自体が、挑発的な行動だった。
日本に敵対意識をもつ中国兵が、暗闇の中を近づいてくる日本兵を見れば、警告の意味を含めて発砲するのも理解できる。
盧溝橋事件は、日本軍の無謀さが起こしたといえよう。
なお牟田口廉也は、アジア太平洋戦争の末期にインパール作戦を強行して、日本兵に大量の餓死と病死をさせた。
盧溝橋での日中の戦闘は、37年7月11日に現地軍の間で停戦の協定が結ばれた。
ところが日本陸軍の中央機関(参謀本部と陸軍省)および日本政府は、この停戦協定を無にする対応を行っていた。
当時の陸軍中央は、ガバナンスに欠けた状態にあった。
参謀総長の載仁(閑院宮)は73歳の高齢で、実務をしてなかった。
さらに参謀次長の今井清は病臥中だった。(38年1月に死去)
参謀本部・第二部長の渡久雄も病臥中(39年1月に死去)で、支那駐屯軍・司令官の田代晥一も重体だった(37年7月16日に死去)。
健康だった杉山元・陸軍大臣は、「厠のドア」とあだ名される、強く押す方へ開くタイプで、強い勢力になびく人だった。
このようなガバナンスの欠如した陸軍中央で、「強大な一撃を加えれば、すぐに中国は屈服する」という『中国一撃論』を主張する者たちが、一気に主流派に躍り出た。
その中心は、参謀本部・作戦課長の武藤章・大佐だった。
章は、1935年に斬殺された永田鉄山・軍務局長の子分で、陸軍の「統制派」のリーダー格になっていた。
章は、田中新一(陸軍省の軍務局・軍事課長)らと組んで、多数派工作に成功した。
その一方で、参謀本部・第一部長の石原莞爾は、日中の戦闘の不拡大を目指し、載仁・参謀総長の同意を得て、37年7月8日(盧溝橋事件の当日)に「さらに進んで兵力を行使するな」と支那駐屯軍に命じた。
しかし同じ8日に、武藤章と田中新一は、日本から軍隊を派遣する事で合意した。
7月9日には、参謀本部と陸軍省が合同で、『北支時局の処理要領』を作成した。
この要領は、日本と朝鮮から軍隊を派遣し、関東軍(満州に居る軍)と一緒に「平津地方(北京と天津)」を確保する(占領する)という内容である。
翌10日に、この派兵方針に石原莞爾も同意させられた。
この派兵は、華北の分離を達成して、河北省とチャハル省を「第2の満州国」にしようとするものだった。
石原莞爾は、自分に従わない部下の武藤章を批判したが、章は「何をおっしゃるのですか、私はあなたが満州事変でやったのと同じ事をやっているだけです」と反論した。
莞爾は黙るしかなかった。
かつて石原莞爾と板垣征四郎は、謀略で柳条湖事件を起こし、陸軍中央の不拡大方針を無視して満州事変を拡大させ、ついには満州国をつくった。
その功績が認められて、莞爾は参謀本部・第一部長に出世し、征四郎は後に陸軍大臣となった。
莞爾は、上官に従わずに作戦を強行し、それで出世を目指す風潮の先駆けだった。
杉山元・陸軍大臣は、華北への派兵案を閣議にかける事を、近衛文麿・首相に求めた。
37年7月11日の閣議では、陸軍の派兵案が承認され、その戦争を『北支事変』と命名することに決まった。
近衛内閣は、以下の「重大決意」を発表した。
「今次の事件は、支那側の計画的な武力を使った抗日である。
北支の治安維持は、日本帝国および満州国にとって緊急の事である。
支那側の不法行為を今後なくすことは、東亜の平和の上で極めて緊要である。
よって日本政府は、本日の閣議で重大決意を為し、北支に出兵する事を決めた。」
陸軍中央と近衛内閣は、現地で停戦協定が成立する最中で、華北への派兵を発表したのである。
こうして盧溝橋事件は、本格的な日中戦争へと拡大することになった。
さらに7月11日に陸軍・参謀本部と海軍・軍令部は、「日本帝国の居留民の保護を要する場合は、青島および上海付近に限定して、陸海軍は協同してこれに当たる」という、『北支作戦に関する陸海協定』を結んだ。
この協定が、8月になって大山事件という謀略を海軍が上海で起こすと、陸軍の上海派兵に繋がった。
(2020年7月5日に作成)