(『日中戦争全史・上巻』笠原十九司著から抜粋)
1935年になると、日本は「華北分離の工作」を進めた。
これを見た中国の人々は、「日本は華北を第2の満州にしようとしている」と危機感を強め、国民党と共産党の内戦を止めるように求めた。
だが国民党(国民政府)を率いる蒋介石は、剿共戦(国内の共産党を撲滅する戦争)を続けた。
剿共戦の結果、共産党と紅軍(共産党の軍)は陝西省の北部に追いつめられた。
すると蒋介石は、張学良を「西北剿匪総司令部・副司令官」に任命し、東北軍を率いて陝西省北部を攻撃しろと学良に命じた。
蒋介石は、自らに非直系の軍閥である張学良の東北軍を、剿共戦に投入して消耗させ、紅軍の撲滅と非直系軍の弱体化という一石二鳥を狙ったのである。
これより前、張学良は満州事変(1931年)の際に、日本軍と正面切って戦わなかった事から「不抵抗将軍」の汚名を受け、窮地に追い込まれた。
学良は下野を表明し、蒋介石の勧めで33年4月に家族と共にヨーロッパ旅行に出た。
ヨーロッパの国々を歴訪して中国に戻ったのは34年1月で、そこに介石から陝西省での剿共戦を命じられたのである。
張学良は、東北軍13万人を率いて、陝西省の西安に司令部を置いた。
そして陝西省主席の楊虎城の西北軍と共に、「囲剿戦」(紅軍を囲んで撲滅する作戦)を始めた。
ところが1935年10月~11月に、3回にわたって紅軍に大敗した。
共産党は、捕虜にした数千人の将兵に対し、「内戦を停止して、一致して日本と戦おう」と説いて、旅費を渡して送り返した。
このため東北軍の将兵に厭戦ムードが広まった。
そもそも東北軍は、満州事変によって故郷の満州を追われた軍隊である。
そして移駐してきた華北も日本に奪われようとしている今、同じ中国人の共産党軍(紅軍)と戦うことに抵抗があった。
だから東北軍内では、蒋介石の命じるままに共産党と戦う張学良への不満が高まっていった。
その一方で、抗日救国を目指す民衆の運動は、中国全土に広がり、東北軍の居る西安にも達した。
張学良は、本音では蒋介石の政策「安内攘外」(国内の共産党を倒してから日本と戦う)に批判的だった。
そこで1936年4月8日に、自ら飛行機を操縦して共産党の根拠地である延安に飛び、翌9日に共産党指導者の周恩来と会談した。
5月上旬には2回目の会談が行われ、学良は囲剿戦の停止を約束し、内戦をやめて一致して抗日にあたる事で合意した。
この学良の決断には、満州事変の時に自分が不抵抗主義を採った事への悔恨の思いがあった。
囲剿戦が一向に進展しないのに業を煮やした蒋介石は、1936年12月4日に側近を率いて自ら西安に乗り込んできた。
これに対し張学良は、介石の宿舎に赴き、内戦停止と一致抗日を涙を浮かべて説いた。
しかし介石は頑として受け付けず、両者の意見の相違は決定的となった。
12月9日に、前年の一二・九運動(北京で行われた抗日救国を求めるデモ行進)の1周年を記念して、西安の学生1万人が内戦停止と一致抗日を求めてデモ行進を行った。
学生たちは蒋介石に直接話そうと思い、介石のいる温泉地の宿舎に向かったが、国民党の憲兵隊が銃を構えて阻止した。
介石は、憲兵隊に発砲許可を与えていた。
衝突が起ころうとした所へ、張学良が駆けつけて、学生たちに「蒋介石に学生の要求を伝え、1週間以内に事実をもって答える」と約束し、学生たちを帰した。
1936年12月12日に張学良は、東北軍の精鋭に蒋介石の宿舎を襲わせて、介石を拘束して監禁した。
その日のうちに、学良と楊虎城の連名で、以下の8つの主張を全国に通電した。
① 南京政府(国民党政府)の改組
② 内戦の停止
③ 救国会の指導者(七君子)の釈放
④ 全国の政治犯の釈放
⑤ 民衆の愛国運動の解放(政府は民衆運動を弾圧をしない)
⑥ 人民の集会、結社など、政治的な自由の保証
⑦ 孫文の遺嘱の遵守
⑧ 救国会議の即時召集
これが、世界を驚かせた『西安事件』である。
日本のメディアは西安事件について、中国は大動乱になるとセンセーショナルに報じた。
たとえば読売新聞は12月13日号外で、「全支那は大動乱の危機に」「蒋介石の生死に拘わらず、張学良の即時討伐、総司令・何応欽は洛陽に飛ばん」「張学良の野心が爆発」と報じた。
西安事件の翌朝に張学良は、共産党に電報を出し、周恩来の招聘を求めた。
周恩来は西安に来て、12月22日には蒋介石夫人の宋美齢と、その兄の宋子文も西安に来た。
そして張学良、周恩来、宋美齢、宋子文の4者会談が行われ、24日には蒋介石と周恩来が会談し、「内戦停止、一致抗日」の基本合意ができた。
蒋介石は監禁を解かれて、26日に飛行機で南京に戻った。
西安事件を起こした学良は、自らも南京に行き、国民党・軍事委員会の軍法会議で裁きをうけることにした。
学良は、「上官暴行脅迫罪」で「懲役10年、公民権剥奪5年」の判決となった。
ところが介石は、1937年1月4日付で学良を特赦し、軍事委員会の下で軟禁する措置をとった。
以後の学良は、各地を転々としながら軟禁生活を強いられた。
(2020年7月5日に作成)
(『馬占山と満州』翻訳・陳志山、編訳・エイジ出版から抜粋)
東北軍を率いる張学良は、熱河省までもが1933年に日本軍に占領されてしまうと、責任をとって辞職し外遊に出た。
学良が辞めると、蔣介石は東北軍を改編して、自らの直系の何応欽を総司令にした。
これ以降、東北軍は剿共戦(中国共産党軍との内戦)に使われた。
1934年2月に張学良は外遊から戻ってきた。
すると蔣介石は、学良を剿共副司令に任じ、東北軍を率いさせて最初は西南へ、のちには西北(山西省)へ派遣した。
1935年の5月から6月にかけて、蔣介石は西安に「西北剿匪・総司令部」を設立し、自らは総司令になり、張学良を副総司令に任命した。
学良は東北軍を集結させて、北上してくる紅軍(中国共産党の軍)を阻止しようとしたが、手痛い反撃にあった。
張学良軍と楊虎城軍が紅軍に敗れたのは、「停止剿共、一致抗日」(共産党との戦いを停止し、一致して日本軍と戦う)の声が兵士の間で高まっていたのも一因だった。
1936年1月25日に共産党は、「致東北軍 全体将士書」を発表して、「内戦の停止と一致しての抗日」を訴えた。
楊虎城は紅軍と相互不可侵の協定を結び、張学良も共産党との接触を開始した。
36年2月に張学良と共産党の周恩来は延安で会談し、「国共合作、一致抗日」の10項目で合意した。
しかし蔣介石は相変わらず共産党を叩き潰すのに執心しており、36年10月に自ら洛陽に行き、剿共戦の作戦を立てた。
介石は自ら西安に行って指揮する事にし、馬占山らも来るよう打電した。
介石が西安に到着すると、学生たちがデモを行い、内戦停止を訴えた。
張学良と楊虎城も内戦停止を説いたが、介石の叱責をうけるだけであった。
蔣介石は、自らの直系軍を西安に移動させていて、蔣鼎文を前敵総司令に任命した。
張学良は、介石から疎外され始めたと感じた。
36年12月7日に張学良は、蔣介石に再び内戦停止と一致抗日を訴えたが、介石は「死んでも剿共戦をやり遂げる」と返事した。
この時に学良は「兵諌」を決意したが、西安に到着した馬占山らは全く気付かなかった。
12月12日の朝、張学良の兵が西安ホテルに闖入し、蔣介石らを拘禁した。
「西安事変」の始まりである。
張学良と楊虎城は、すぐに全国へ通電を打ち、次の8項目を西北軍民の要求として訴えた。
① 国民党政府の改組と、超党派の参政
② 内戦の停止
③ 上海で逮捕された救国連合会のリーダー7人の釈放
④ 全国の政治犯の釈放
⑤ 民衆の愛国運動の解放(政府は弾圧をしない)
⑥ 集会と結社など政治的自由の保障
⑦ 孫文の遺訓の遵守
⑧ 救国会議の招集
この打電には、署名者として馬占山、于学忠、陳誠らも名を連ねた。
12月16日に共産党は、周恩来、秦邦憲、葉剣英を西安に派遣し、張学良と会談した。
19日に学良は、上の要求を①~④の4項目に減らし、蔣介石に提案した。
これは恩来の意見に基づいていた。
介石は、南京から妻の宋美齢や義兄の宋子文らを呼び、恩来とも会って、25日に要求に同意した。
こうして西安事変は平和解決したが、翌日に張学良は蔣介石を南京まで送っていった。
しかし今度は彼が拘禁されてしまった。
(2021年6月6日に作成)