(『日中戦争全史・上巻』笠原十九司著から抜粋)
日本の近衛文麿・内閣は、1937年7月11日に「重大決意」の声明を出し、華北への派兵を発表した。
すると中国では、「国民党と共産党の合作(共闘)」による抗日の統一戦線を求める気運が、急速に高まった。
中国共産党は37年7月15日に、『国共合作を公布するの宣言』を国民党へ送り、次の事を約束した。
① 国民党政府の打倒を目指す革命運動をやめる
② ソビエト政権(共産党の政府)の取り消し
③ 紅軍(共産党の軍)の呼称の取り消し
7月17日には、国民党政府の会議に周恩来ら共産党の代表団が招かれ、国共合作の協議をした。
国民党のトップである蒋介石はこの日、「盧溝橋事件により、日本に対し和平か戦争かの最後の関頭(分かれ目)に至った。戦争になったら徹底的に抗戦する」という、『最後の関頭の演説』を行った。
蒋介石は、中国軍の第29軍(北京の地方軍閥)が勝手に日本軍と協定を結んで北京を明け渡すのを懸念して、国民政府(国民党政府)の中央軍を北京に向かわせた。
蒋介石は満州事変の時は、日本に対し不抵抗の政策を採ったが、今回は違った。
蒋介石の国民政府は、日本との全面戦争に備えて、満州事変以後の6年間で軍の強化に努めていた。
ドイツから軍事顧問団を招いて、ドイツ式の装備と訓練を導入していた。
7月25日の夜に、北京と天津の間にある廊坊で、日本軍が中国軍に攻撃される「廊坊事件」が起きた。
26日には北平(北京)城内へ入ろうとした日本軍が、中国軍から射撃される「広安門事件」が起きた。
7月27日に日本陸軍・参謀本部は、「支那駐屯軍の司令官は、平津(北京と天津)地方の支那軍を膺懲すべし」と命令を下した。
28日の早朝から日本陸軍・支那駐屯軍は、中国軍・第29軍への総攻撃を始め、29日までに北京と天津および永定河の西岸地区を占領した。
これは、国民政府の中央軍が到着する前であった。
7月29日には、「通州事件」が起きた。
通州は、北京から東に10km行った所にある都市で、日本が華北分離の工作として設立した「冀東防共自治政府」の所在地である。
7月28日に日本軍と第29軍が交戦した際、日本軍の飛行機は冀東防共自治政府の保安隊の兵舎を誤爆し、死傷者が出た。
これに怒った保安隊の3千人が、29日に反乱を起こし、自治政府の主席である殷汝耕を捕縛して、日本軍の特務機関などを襲撃した。
これが通州事件である。
日本人は特務機関長や居留民など223人が殺された。
死者のうち106人は朝鮮人だったが、これは慰安所があったからである。
30日に日本軍が反乱を鎮圧し、殷汝耕を救出した。
東京朝日新聞など日本の新聞は、この事件を「大虐殺」と報じて、支那膺懲の熱を高めるのに利用した。
蒋介石は1937年7月31日に、『全軍の将兵に告げる書』を発表し、対日戦争に至ったと宣言した。
そして将兵に、侵略者を駆逐するため一致団結することを呼びかけた。
(2020年7月5日に作成)